帰依

2020年3月10日現在、この新型コロナ肺炎禍はこの地球の表面を網羅しつつあるようだ。マスコミは社会の木鐸たる役を放棄し視聴率を競うように不安感を煽り立て、老人は早朝から買占めの列に並ぶ。他方集合知であるべきネットやSNSは右や左とレッテルを貼りながらマウンティングをし合い、精神を蝕む不毛地と成り果てている。目に見えぬ抗いようもない病魔は人間の根幹にある恐怖を鷲掴みにする。

ベイユが「カイエ」で予見した「重力」。それは人間の弱さの現れでもあり、唯一その軛から逃れ得る「美」という神からの「恩寵」を見つめるべき時が来たのかもしれない。他人を尊重する事をせず弱者をかえりみず、己の小さな自尊心と貧しい利益に汲々とするぼくらは中世の民草と何変わる事があろう。首相安倍晋三を贖罪羊よろしく血祭りに上げ、一敗地に塗れさせたとしてぼくらにかかる「重力」は更に重くなるばかりではあるまいか。その糾合に爛れた口で美を語ろうというのか。

日本には鉄の規律への帰依を強いる絶対的な宗教や政治思想は存在しない。それは古くからの災害大国として他国に比しての柔軟性、適応性の高さの証だったのではないか。日本には長らく美学が根付かなかったのもその民族性に依るところが多かったのだろう。ベイユのいう「恩寵」はぼくらの胸の中に存在する。気安く人を誹るな。口が曲がるぞ。いまこそ冷静に弱者を扶け、足るものの中で愛でることを思い出そうではないか。誹る前に自らを律しようではないか。ぼくは誰がなんと言おうと文芸家で写真家である。勤労と清潔で倹しい生活の中、自らの美に帰依することこそ今最も必要な事なのかもしれない。

叶裕

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