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デジタルネイティブとは幻想か

デジタルの進化とともに成長してきたミレニアル世代後半、生まれたときから当たり前にデジタルに囲まれてきたZ世代。彼らは、一般に「デジタルネイティブ」と呼ばれています。

デジタルを使いこなす力を持つ人の割合は年齢と反比例の様相を表すと思われます。(脳が一定程度成熟していない幼児、児童などを除く)
しかし「デジタルネイティブ」と言う言葉、概念は一人歩きをしているように思えることがあります。
今回は「デジタルネイティブ」について考えるにあたり、
ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』を参考にしました。

デジタルネイティブは幻想か

上記の著書の中で「リテラシ― デジタルネイティヴは、幻想だ」という章があります。この章の中でダナ・ボイドは「デジタルネイティブ」と呼ばれる世代、特に「ティーン」について以下のような趣旨のことを述べています。
彼らはオンラインの積極的な参加者ではあるが、生まれながらにオンラインを有効活用する知識や技術を持ち合わせているわけではない。そして「デジタルネイティヴ」という言葉が若者たちの直面する困難を理解するにあたり混乱を招く原因になっていると。確かにこれは事実だと思います。「デジタルネイティヴ」と言う言葉が霧のように若者全体を覆っているかのように感じます。そう考えると、デジタルネイティブというくくり方は幻想かもしれません。

デジタルデバイドにおける弱者

確かに、すべての若者がデジタルネイティブと言う一つのまとまりで考えている人にはオンライン上で困難に直面する若者については想像力が働かないと思います。実際、私もデジタルネイティブとしての扱いを受け苦労した経験があります。

高校まで、将来はスポーツで食べていこうと目標を立てていた私は、デジタルには疎かった。選手の傍ら、部活でトレーニングメニュー作成を担ったときも情報源は本。メニュー表も手書きでした。
いまだにデジタル機器が周囲にない生活をしている高校の部活動はいくつもあります。私の場合はスマートフォンは持っていましたが、使っている時間を悪と捉えていたため、4日間充電が必要がないくらい使っていませんでした。今考えれば、もっと動画などから情報を得るべきだったと思いますが、あの時間への後悔はありません。

そんな過去もあり、今でも何かをまとめる時は紙にまとめます。確実に形として残り、手を動かすことで記憶にも残りやすい。
さらに他人に送る時は情報漏洩などの心配が少し減ります。

かといってデジタルを否定はできません。環境のためのペーパーレス化、情報共有、持ち運びが容易になる、など、社会全体を考えたとき今後デジタル化が進むことにメリットが大きいことは確かだと思います。

そこに選択肢はあってもいいのでは?

デジタル化の推進に誰もが足並みをそろえなければいけないのでしょうか?
私個人としては、足並みをそろえていくつもりで日々少しづつ勉強をしています。しかし、誰もが足並みをそろえられるとは思いません。私のようにただ、デジタルに疎かっただけであれば、勉強すればいいだけかもしれません。しかし、デジタルへの恐怖心、トラウマを抱えるひとが少なからずいるという事を友人との会話で気づかされました。オンライン上でトラブルにあった経験や、オンラインに対する恐怖感を理由としてデジタル化の波に乗れない、乗りたくないという人は少なからずいます。そのような人たちを置いていくことは強者の理論ではないだろうか。

デジタル教育

今日のデジタル教育の現場について私は詳しくありません。ただ、デジタル教育の拡充はまだ道半ばであると一人の若者として感じます。まず、オンライン上でのトラブル対処の仕方などは教育を受けたことがなく、ネット上で調べて知識を得ています。人によってはトラブルに対処できず、その後デジタルに触れること自体がトラウマとなる人もいると思います。適切な知識があれば防げることを防いであげるのは大人、教育をする側だと思います。いくらデジタルネイティブと呼ばれている世代でも自らの行動の動機、信用には大人から受けた教育が影響しています。例えば、「Wikipediaの情報は必ずしも正確ではない」これを大学に入ってから知る人は多いのではないでしょうか。私はそうでした。大学の初期の講義でWikipediaの情報についての説明があり、論文執筆の引用元に適さないという説明が多くの大学でなされるからです。このようにデジタルに関することをすべてデジタルネイティブと呼ばれる世代が先んじて知っているわけではありません。大人、デジタルネイティブ世代じゃない者(参考文献の中ではデジタルイミグラントとよばれる)からこそ分かる、気づけることによって若者のデジタル活用を支える必要があると思います。

また、周囲を見ていて少なからずデジタル教育の必要性を感じます。
今回の参考文献の中でも筆者は「(オンライン上で)彼らが消費しているものを批判的に検証する視点や知識を生まれつき持ち合わせているわけではない」「(テクノロジーを)効果的かつ意義あるかたちで利用するための技術と知識を育む機会が必要である」と述べています。
自らがオンライン上に発信したりシェアしているものが法的に問題がないのか、誰かを傷つけないか、見る人を不快にさせないか、そういった想像力を学び鍛える場が必要だと思います。私自身も足りていないことをしばしば実感します。
自らの配慮不足を感じた例があります。初めて東京のトレーニングジムでフォームチェックのために動画を撮ろうとしたところ、壁に「(どんな理由であっても)撮影禁止」の注意書きがあったことに気づき撮影を中止しました。
また、これは周囲で感じた事ですが、以前友人と2人で歩いている時、雪の降る中、路上で泥酔し半袖で横たわっている人を見つけました。その時友人がとっさにスマートフォンを取り出し、動画を撮ったのです。私はそれを止めて交番に電話をし、警察にその人を連れて行ってもらったため何事もなく終わりましたが、彼がもしあの動画を撮影し、オンラインにアップしていたら何が起こったか分かりません。何も起こらないことの方が多いかもしれませんが。

締め
若者、特にティーンはいくらデジタルに精通していても倫理や道徳の観点などの面を考えるとデジタルに精通した大人による教育が必須だと思います。
また、デジタルに移行できない人への理解増進も一つの課題だと思います。デジタル教育の拡充を願うとともに、自分ができる事をそろそろ考える年齢になってきたと感じます。
就職後、発信力を生かしデジタル教育についての知識を広める講座をすることが一つのやりたい事リストに増えました。
少しでも自分のできる事で悩む人に貢献したい。それは自分がしてもらってきたからなおさら。

今回参考にしたダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』では「デジタルネイティヴ」の起源などについても詳しく説明がされているので気になる方は是非。

本記事の「デジタルネイティブ」と「デジタルネイティヴ」は同義です。参考文献上では「デジタルネイティヴ」私は普段「デジタルネイティブ」をよく目にするので文献に関する文言の場合「デジタルネイティヴ」を使っています。

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