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前進

長くなるとは思いますが最後までお願いします。
これは今の自分にこれで満足せずにいようと思いこれを書いて初心の自分に戻れるのならばと心の整理のために、それとこれを読んで小さい子供たちが「将来サッカー選手になりたい」、サッカーをやっていない人でも「もう一度夢に向かって頑張りたい」、「まだ諦めたくない」と思ってもらえるように自分の過去などを正直に書きました。
どうしても高校時代のことが多くなってしまいますがよろしくお願いします。

自分は母子家庭の2人兄弟の次男坊。兄貴は運動神経が良く、やらしたらすぐになんでもこなしている人でした。ですがどこか抜けていて、母親にはいつも怒られていました。それとは打って変わってしっかりはしていたが、小さい頃はサッカーなどできるような運動神経ではありませんでした。保育園でかけっこをしたら女子にも負けいつもビリ。寂しがりやで、親にしがみつき泣きじゃくってた自分でした。そんな時、自分たちに〝サッカー〟を教えてくれたのは当時母親と付き合いを始めていた人、現在の父親でした。わけあって今は父親と呼んでいいのかは疑問ですが、僕はそう思っています。山本優太から中学に入る時に宮本優太へと変わり家族になりました。その間に産まれたのが妹です。

父もサッカーをやっていてプロになろうと頑張っていました。ですが怪我をしてしまい、プロの道を諦めざるえなかったんです。その夢を僕たち兄弟に託したように、自分たちはそっからサッカーというものに興味を持ち始めました。
昨年の第96回全国高校サッカー選手権で取材陣や色々な方から「どんな練習をしてきたのですか?」と聞かれた時に自分は「言えるような練習じゃなかったです。」と笑いながら答えた。それは皆さんが考えているほど楽なものではなく厳しいものでした。毎日家の周り(約500m)を何周も走って、ひたすら壁打ち。時には父が打つボールに飛び込む練習など、何のためにやっているのかと思う人も多いと思います。その時は正直疑問だらけでしたし、やめたくもなりました。ですがサッカーをやり続けて中学2年生ごろに「サッカーは走れないと通用しないんだ。」と気づかされました。ましてや自分は技術があるわけでもなく、足が速いわけでもなく、背が高いわけでもないです。その時に父の存在、あのトレーニングのありがたみを知れました。
中学ではForza‘02というクラブチームに通わせてもらい、週4日の練習時は毎回チャリで40分かけて通ってました。高校を決める時に、ふたつの選択肢、流通経済大学付属柏高等学校と、山梨県の高校とで自分は迷っていました。自分の中で考え抜いた結果、自分のレベル的にも必要としてくれているのは山梨県の高校。自分に嘘をつき、「そこでサッカーしたい」と家族に報告した時に、父からある言葉をかけられました。「お前の本当に行きたい方に行け」 この言葉を言われた時に、素直に流経大柏に行きたいと言いました。この言葉があったからこそ今の自分がいるんだと思います。ですが父には「今のままじゃ手も足も出ないぞ」と警告され、そこから体幹トレーニング、体力トレーニング、筋トレを重心的にやってきました。
2015年4月「全国に出て活躍する。」「選手権に出る。」という胸に刻み、流通経済大学付属柏高等学校入部。自宅から荷物を積み家族に別れを告げ、友人にも別れを告げ、母親と泣きながら車に乗ったのを覚えてます。入部してからの事、それは今まででは考えもつかなかった辛くきついものでした。私生活でもサッカー面でもうまくいかないことばかりでした。父が言ってた通り、自分がやっていたレベルとは違う選手が沢山いました。菊地泰智(元 流経大柏→現 流経大)石川貴登(元 流経大柏→現 京都産業大)や数多くの優秀な選手がいました。そこでキャプテンをやらせてもらったこと、そのことによってものすごく自分自身にとっても成長できたと思います。どういう部分が成長できたのかというと、これは自分だけではなくみんなに言えることですが、生活面では当たり前のことを当たり前にやる大切さ。それは挨拶にしろそうです。本田先生(監督)は人間として基礎的なことを自分たちに教えてくれました。普通に叱るだけではないのです。流経大柏を卒業すると必ず出てくる思い出話しに「電柱挨拶」というものが必ず出てきます。それは電柱の前に立って大きい声で挨拶をする。たったそれだけですが皆さんはやったことがありますか⁇僕はなかったです。笑
「1000日修行」というワードをよく耳にする人も多いのではないのでしょうか?その名の通り、練習もきついです。朝練から午後練、ほぼ毎日2部練。弱音をはく選手や愚痴をいう選手もいました。自分も100%言わなかったわけじゃありません。ですが、そんなチームのキャプテンを任された以上チーム引っ張って行かなきゃいけない存在。チーム1うまいわけじゃありません、ですがチーム1走れます。それでチームを引っ張ろうと決めました。チーム1体をはって、きつい時も前に出てやる、人一倍声を出す、当たり前のことかもしれないですが、これも監督やスタッフに教わったことです。流経大柏31期生は1年時ルーキーリーグ優勝をしました。ですが、全勝優勝にはあと一歩で届きませんでした。

(https://web.gekisaka.jp/news/detail/?171264-171264-fl) この時にレオンさん(斎藤コーチ)と約束した思いは一度も忘れなかったです。1年時はTOPチームにうまく関わることもできずに物足りなさが残り2年生で活躍ができるようにと思い1学年上がり、お客様の1年目とは変わりチームをよく見なくてはいけない学年へと変わりました。2年生時には、TOPチームに関われてたものの、OFFシーズン期間は全くうまくいかずにTOP BやTOP Cと試合に出るのはほど遠い立ち位置でした。正直「泰智や他の選手はどんどん上に行くのに自分は何してんだ。」と思っていました。「コーチがわかってくれないんだ」とその時の自分は言ってました。その時「わかってもらえるまでやるしかないよ」と声をかけてくれたのは母でした。そう言われてから自分の考えは「コーチ」から「自分」へと変わりました。どんなにミスをしても自分の長所を発揮するだけ、気に入られるようにじゃなく、自分のプレーをわかってもらえるようにとプレーしました。それでも実際、試合に出れるようになったのはインターハイ千葉県予選からでした。サッカーとは逆に家族は悪い方向へといってしまい、離婚してしまいました。その時頭の中は「母子家庭」という言葉でいっぱいになりました。「自分が小さい頃味わっていたことが、また妹にも起こるのか」や「こんな時にサッカーしてていいのか」など思いました。こんなこと仲間にも言えず、泣きながら寮に帰りレオンさんだけに相談したら「サッカーで仲直りさせてやれ」と言われました。大好きなサッカーで家族を取り戻そうと、もう一度新たに一歩踏み出すことができました。そこから出させてもらったが1年間チームの結果も出ずにライバルである市立船橋高校さんに夢を閉ざされてしまいました。

最上級生の4月。またしても試練。自分はピッチに立てていませんでした。それは「右膝半月板損傷」の手術をしプレーができていませんでした。キャプテン、最高学年、というプレッシャーに何度も押しつぶされそうでした。 そんな時に声をかけてくれたのが本田先生です。「落ち着いて今は休め」という言葉をもらい、慎重にいくがレベルアップのためリハビリ、トレーニングを積み重ねていきました。それと親など、色々な方に支えられて乗り越えることができました。これを機に人間としても成長していかなきゃいけないと思い、自分が取り入れたのは「読書」です。読書をしたからできるようになったか絶対とは言いきれませんが、一歩下がって全体を見れるようになりました。自分のためになったのは間違えありません。
プリンスリーグは応援団長として5節までスタンドから観戦していました。自分がピッチに戻ることができたのはインターハイ千葉県予選の準決勝 vs日体大柏戦からでした。
そしてインターハイ千葉県制覇、インターハイ優勝、選手権全国出場(千葉県制覇)、という結果が出せました。

全国までの期間、監督は2週間ほど海外へと足を運んでいました。それと同時に地獄のフィジカル期間が開始されました。それはこの3年間で1番きつい時期だったと思います。走って、走って、ボール使って、走って終わるような日々が続きました。ですが、自分はやめたいなど思いませんでした。むしろきついですが嬉しい気持ちになりました。それは3年生全員でのフィジカル期間だったからです。それはどんな意味があるのか、正直部員の中にはメンバーに入れないとわかってたやつもいたと思います、ですがそういうメンバーが本気で走っているのをみて自分にも気持ちがより入って、チームの雰囲気も上がったと思います。それからプレミア参入という1年でプレミアへ復帰し、最後の大会の選手権へと臨みました。決勝戦で前橋育英高校に負けてしまい、準優勝となりましたが、高校3年間ものすごく良い思いばかりさせてもらいました。

試合が終わりホテルに着いた時にある人から電話がかかってきました。それは兄です。兄からは「3年間おつかれ。お前が1番だよ。」という言葉をかけられベットの上で泣き崩れたのを覚えています。母からも父からも「3年間お疲れ様」とい言葉をかけられました。本当に家族に支えられてたからできたこと。苦しい時期を家族の中心となって支えてくれた兄に感謝しきれませんでした。色々とありましたが今でも自分の父は変わっていません。父も含め、今の家族いたからこそここまで成長できたと思っていますし、乗り越えられたと思っています。
そして自分のサッカー選手になるという夢はここ流通経済大学で最後の挑戦となります。
この1年間TOPチームには関わっていたものの、個人としてもチームとしても結果が出せずに終わりました。来年こそは個人としてもチームとしても結果、日本一にこだわり頑張っていきたいと思います。

最後にこれは退寮式にも後輩には言ったことなんですが、四字熟語に「臥薪嘗胆」という言葉があります。これは苦しい時や辛い時に、良いことや楽しみなことを考えて乗り越えるという意味です。サッカーをやっている時も走りのメニューやフィジカル練習などありますよね、それはきついことです。辛くて逃げたくなる時だってあります、ですがそんな時「優勝」など最高な想像をしてみてください。必ず頑張れます。受験生もそうです、「勉強なんてしたくない」って思うと思います。自分も思います。ですが、「合格」「受験成功したらおこずかい貰える」でも「デートがある」でもなんでも良いんです。ぜひこの言葉頭の中の小さな押入れにしまっておいてください

最後まで読んでいただきありがとうございまし
た。長くなってしまいましたがどうでしたか⁇これからの人生、将来の夢に向かって、自分の話が少しでも力になれれば良いです。それと夢を実現させるためには家族の存在もものすごく大切なものだと思います。ぜひこの言葉を頭の中の小さな押入れにしまっておいてください。自分を見失った時、夢を諦めたくなった時に思い出してみてください。諦めなければ必ず夢は叶う。そう教えてくれた高校3年間でした。そしてこれからもプロサッカー選手になるという夢を持ち続け頑張っていきます。
本当にありがとうございました。

流通経済大学 宮本優太