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正義の魔女‐もしもが叶うなら‐

「……はぁ」

 小さく溜息を零す。
 春が目前に迫っているとはいえ暖冬だった影響か未だ寒暖差が激しく、室内では暖炉に薪を焚べて燃やさなければ白い息が出るような気温が続いている。
 窓の向こう側ではぱらぱらと疎らに粉雪が降っていた。彼女―――パラデアはその光景に目を細め、再び溜息を漏らす。

(雪が羨ましい)

 春の訪れと共に雪は溶けて消える。だが、犯した罪は雪の様に溶けて消えるなどという事は決して無い。そうして消えられればどんなに楽か。
 その人間が死ぬまで、或いは長い時間をかけて忘れ去られて人々の記憶から消えるまで長く、とても長く残り続ける。記録に残っていれば尚更で、それが大きな咎であればあるほど、人々の記憶の片隅に置かれ続けるだろう。

 そういった点でパラデアは人々の記憶に良くも悪くも根付いた存在だと言える。
 ―――正義の魔女。人類軍全権指揮官。
 そして、鏖殺の魔女。

 誰よりも悪魔と人間を屠った正義と大悪の魔女。人々はパラデアが凶行に走った理由を知らない。それを知ろうとした者は悉くがパラデアに焼かれると噂が立つようになり、領主の麾下に加わる様になって間もなくパラデアは腫れ物のように扱われていた。いつしか彼女は正義の魔女という名前と共に鏖殺の魔女とも呼ばれるようになる。
 領主の臣民の悉くがパラデアを恐れ、誰もが遠巻きにその一挙手一投足に警戒しており、ある者はパラデアがまた狂う前に領地から追放するか処刑するべきだとさえ嘆願する程に彼女は畏怖の象徴とされるようになった。

 だが、当のパラデアはそうして独り歩きしている風説や悪魔の様な人柄に反し、極めて無害かつ穏和な人間である。
 絵を好み、普通の人間の様に笑う、ただのありふれた女性。その現実と伝播した風聞が極めて乖離しているからこそパラデアは煩悩していた。
 しかし、パラデアに出来る事はそれに異を唱えるのではなく、領主に割り振られた執務を淡々とこなすだけだった。

 仮にも全権指揮官を務めていたパラデアを指揮官に据えればすぐにも軍を手足の様に扱うだろう。だが、それは兵がパラデアの命令を聞けばの話だ。将官とはいえいつ凶行に走るか知れない人間に命を預けられる者はいない。結果として模擬戦ですらパラデアは成果を出すことが叶わず、執務に従事せざるを得なかった。
 しかしそれ自体は彼女にとって僥倖でもある。元々パラデアは戦いを好まない。戦地に出ずに済むのであればそれに越したことはない。だから、問題は別にあった。

 領主が進軍し、呪いに侵された土地を解放していく度に復興した村や街は加速的に増えていく。しかし領主の軍の中枢に位置する者……魔女の多くは元々一般人や教養を学ぶ必要がなかった市民や隠遁した生活をしていた者が大半であり、領主の様に運営を行える者は希少だ。
 だからこそパラデアは麾下に加わって早々に領主から重宝され、領地を留守にしがちな彼に変わって多くの領地の代理領主として日々膨大な量の書類を捌いている。

 そして問題はその領地の運営についてだった。パラデアも元はただの平民であり、魔女に覚醒して役職を充てがわれてから執務に関わるようになった叩き上げの文官のような存在。
 故にパラデアは領主が預けてくれたアイリスに手を借りっぱなしだった。アイリスが居なければパラデアは代理領主として機能しなかったのは言うまでもない。
 ―――だがそれは主に能力面の話ではない。パラデアに尾鰭のように付いて回る噂のせいだ。パラデアが誰かに指示を出そうとしても、彼女を恐れてまともに仕事を頼める者が居らずアイリスという潤滑剤を挟むことでようやく仕事の指示ができる。今やパラデアにとってアイリスは救世主に等しい。

「お疲れのようですね、パラデア様」

 先程漏らした溜息を聞かれたのか、または表情に疲労が滲み出てしまっていたのか。領主が執務に使っている部屋で共に書類の山を捌いていたアイリスが気遣いの言葉を掛けてくる。

「いえ……今も進軍し続けている領主さんやそれに従軍している方々に比べれば疲れてなんていません。ありがとうございます、アイリスさん」
「でしたら……パラデア様。私の小休止に少しお付き合い下さいませんか? そろそろ区切りを付けるには良い時間ですから」

 アイリスに促され壁時計に目を流すと、十五時を長針が指していた。パラデアは放っておけば就寝間際まで仕事をし続ける事を既に察しているアイリスがこうして助け舟を出すのが二人にとって通例になっている。

「分かりました。では今日は私がお茶の準備をしてきますね」
「いえ、パラデア様。ここは私が……」
「アイリスさんにばかり連日用意させてしまっているではないですか。たまには私にもお返しさせてください」
「……では、お言葉に甘えて。それでは私はリズ様を此処にお呼びして来ます。あの方も放っておけば働き詰めますから」
「わかりました。そちらはお願いします」

 そうしてパラデアはお茶の準備に、アイリスはリズを呼びに別れた。しかし領主の執務室と給湯室の距離は近く、日頃主に利用しているであろうアイリスが使いやすいように整理が行き届いていた。几帳面な彼女の性格が現れているようで、パラデアは頬を緩ませる。
 侍女見習いのモニカや散らかし放題の他の魔女にアイリスが日頃口を挟んでいるのを見るに屋敷の中は常にアイリスによって適格な管理がなされているのは想像するに容易い。

 村で過ごしていた頃は水を汲むにも冬であろうと井戸から水を引かなければいけなかったにも関わらず、蛇口を捻れば水が出てくるというのは便利な物だと感心する。
 火を起こすのだって村では竈に火種が絶えぬように薪を焚べ続けなければならなかったというのに此処では何らかの火魔術がロザリーか誰かの手による物かかけられていてボタン一つ押せば火を起こせてしまう。文明の発展か魔術の進化か、何にせよパラデアはその恩恵に有り難く預かった。

 水をやかんに貯めて火を点け温めている間に戸棚を探って茶菓子を見比べる。日持ちしない物はあるだろうか、とパラデアが目利きしているとひらり、と戸棚から紙が落ちる。
 それを拾ったパラデアが文面に目を通した。

『パラデアさんへ。今日の午前中に市場に出掛けて作ったパウンドケーキが冷蔵庫に置いてあります。休憩の時にアイリスさんと召し上がって下さい。リズより』

 行動を見越されている事に少し驚きながらもパラデアはリズという何処からかやってきた非凡な少女ならそれも不思議ではないと腑に落ちる。パラデアやアイリスと比較して年の差が無いにも関わらず、歴戦の魔導士としての風格を持ち合わせる少女。
 年に見合わないであろう修羅場や経験を経て来たのであろう彼女ならこの屋敷に来て間もなく他人の行動を予想しても不思議ではなかった。
 此処に来るのはアイリスが多いながら敢えてパラデア宛にメモを残す、というのがどれだけ目敏く他人を見ているのかが察するに余りある。
 そんなリズが日頃口にし敬愛する『領主』とは一体どんな人物なのだろうと思いを馳せる。いつか会えるのか、それかリズが元居た世界に帰るのか―――そこまで考えて、パラデアはふと思う。
 先。将来。もしかしたら領主によってクリファの呪いが全て解かれ、この世界から戦いが無くなる日が来た時。その日に私はどうするのか、と空想して―――。

「パラデアさん。お湯が沸いてますよ」
「……あっ」

 ぼこぼこと沸騰するお湯にすら気付かない程に深く思索していたパラデアはいつの間にか隣りに居たリズの存在も見落としていたようで先にやかんに掛けていた火を止められた。

「アイリスさんに呼ばれたのですがお呼ばれしただけでは心苦しいので、お手伝いに参りました。茶葉の選定も私がしてよろしいでしょうか」
「あ、はい……その、ごめんなさい……」
「お気に為さらないでくださいパラデアさん。私がしたいからするのです。それと……」

 てきぱきとティーポットやティーカップ、茶葉に茶菓子、茶菓子の受け皿や食器などを瞬く間に出しながら的確に茶器の温度を管理しながら茶葉の蒸らし時間も逃さないリズに育ちの差を感じてしまうパラデア。
 リズの所作には明確な品の良さと積み上げてきた技術が遺憾なく発揮されており、日々を過ごすだけで精一杯だったパラデアとは文字通り住む世界が違う人物だというのを少ない所作でまざまざと感じさせられ、パラデアはそれに思わず見入ってしまう。

「あまり、思い詰めないで下さいね。私が知っている方とパラデアさんは似てるので」
「私が誰かと似ている……ですか?」
「はい。その方も思い、悩み、苦しんでいました。ですが、その方には支えてくれる方が居たので最後には笑っておられました。パラデアさんもそうです。領主様、アイリスさんにモニカさんやロザリーさんに……私でも、誰でも構いません。辛いときは頼ってくださいね」
「……でも、私は……」

 育った村も、両親も、親ってくれた村の子供も、何もかもを焼き尽くした私に頼るという事が許されるのか、とパラデアは自嘲めいた表情を浮かべる。
 世界と人類を天秤にかけて人類を切り捨てようとした悪辣な自分が赦しを乞うのはおかしいのではないかと。
 人類の守り手の領主に降った今のパラデアは自分がいつか世界が均衡を取り戻した時に然るべき裁きを受ける為に生きているような物だった。
 だからこそパラデアは自身に関する噂を否定はしなかった。それは自分に下される裁きに対して何の拒否も示さないというせめてもの償いの意思の現れでもある。

「―――人は、誰でも間違いを犯します。でも、生きていればいくらでも償えます。そうじゃないと……悲しすぎますから」
「ですが……それは被害者の権利だと、思います。許す、許さないを決めるのは私ではないですから……それに、私は何を言われても仕方ない事をしてしまいました……」
「パラデアさん。私は貴女の過去をまだ聞いていません。でも、知ったとしてもきっと同じ事を言うと思います。生きる事を諦めないでください」
「ですが……私が生きている限り、私を憎み続ける人は居ると思います。せめて、そんな人々の気が済むように処遇を委ねるべきだと私は思っています」
「それは誰が決めたのですか? パラデアさんが誰かにそうしろと仰られたのですか? それとも、パラデアさんが誰かに対してそうしなければならないと云うのなら、それは誰に対してですか?」
「それは……」
「過去を悔やむ、償う、背負う……似ているようで違います。パラデアさんは……楽になりたがっているのではないでしょうか」

 ああ、もしかしたらそうかもしれない。パラデアはそう思った。パラデアが人々の為に戦っていた事を知る者はフェーネしか居ない。だが、そのフェーネすらパラデアは結果的に裏切ってしまった。残ったのは全てを焼き尽くした魔女という烙印だけ。ならば、いっそ。そんな思いがあったことをパラデアは否定はしない。
 だが、諦めがあったのも事実だった。他の魔女のようにやり直しが利く類の存在ではないとパラデア自身が受け入れてしまっていた。だが、それの何が悪いのだろう。パラデアの思考はそこで止まる。

「パラデアさんが罪の意識を感じているのなら、尚の事生きなければいけません。私は私が居た世界に全ての悪を背負いながら果てた方を知ってます。あの方は許されない事をしたかもしれません。それでも、あの方を想って涙を流した方がいたんです。死んだ人間は生きている人間に何も返せません……だからこそ、パラデアさんは生きるべきです」
「……そう、なのでしょうか」
「少なくとも私はそう思います。処遇を委ねるのは潔いですが、パラデアさんも将来の事を考えても宜しいかと」
「私の将来、ですか……」
「今はそれよりも紅茶を頂きましょう。アイリスさんをだいぶ待たせていますから」

 くす、と笑うリズがトレイに食器や紅茶に茶菓子を載せて先に給湯室を出る。それにつられてパラデアもリズを追う。
 執務室では待ちわびたと言わんばかりのアイリスがリズとパラデアの表情を見て口を噤んだ。アイリスもまた聡い。その目端の良さにパラデアは内心救われた。
 三人でテーブルに置いたティーカップや皿に載せられた紅茶とパウンドケーキを摘んで団欒する。それはパラデアにとって温もりに包まれた世界だった。

「もうすぐ、春が来ますね」

 リズが窓辺を見ながら呟く。先程まで降っていた雪も弱まり、雲の切れ間に日差しが差し始めていた。

「あっという間だった気がします。領主様をお支えしながら日々を過ごしていると四季の流れの速さを痛感します」

 アイリスがそれに乗っかりながら紅茶を啜る。リズが用意してくれた紅茶やパウンドケーキは専門の給仕や本職のメイドに菓子職人すら凌駕しかねない出来でアイリスやパラデアは夕食に影響が出るのを懸念しそうな程口をつけていた。

「春が来たら屋敷の庭にライラックの花を植えたいですね。テラスに出て領主様やモニカさんにロザリーさんや他の皆さんを招いてティーパーティーをするのも宜しいかもしれません」
「それは……素敵ですね」
「パラデアさん、春になったら庭に出て絵を教えていただけませんか? いつか帰るまでに少しでも学んでおける事があれば学んでおきたいですから」
「良いかと。でしたらパラデア様、私にもご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。折角ですからリズ様と絵の競争も楽しいかもしれません」

 リズとアイリスがパラデアに絵の教えを乞う。パラデアはそれだけでつい涙が滲んでしまった。
 リズが口にした将来の事。パラデアが誰かに残せる事。償える事。今はまだ、どうなるかパラデア自身にも分からない。
 でも悲観して全てを投げ出さないようにしよう、パラデアは今はそう思えた。

「―――分かりました。私で良ければお教えしますね」

 春になって庭に咲き誇るライラックの花を描き収めようと苦心するだろうリズとアイリスの姿を空想しながら、パラデアは溢れそうになった涙を指で拭う。

 もしも叶うなら、一つ一つ出来ることで返していこう。してしまった事に対する償いを自死という形で途切れさせないようにしよう。それを教えてくれた可愛い未来の教え子達を見ながらパラデアはそう思う。
 そして俯き、諦めかけていた未来に少しずつ意識を向け始めた。

終。

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