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「迷惑な人」ならば、みんなで叩いていいのか

僕が住んでいる場所の近くで、先日からマンション工事が始まった。

工事車両がひっきりなしに家の前を通るようになり、朝は7時から夜7時くらいまで、工事の音が鳴り響くようになった。

僕の家はアパートの1階にある。窓をしっかりと閉めていても、家のすぐ前で工事が行われていれば、その音は丸聞こえだ。

ある日、あまりにもその音が大きくて耐えられなくなった僕は、建設会社に1本の電話をする事にした。

「すみません、家の前で行われている工事なのですが、音が大きくて眠れなくて…」

「ご意見ありがとうございます。ただ、工事は来年の2月まで続く予定でして。ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解いただけますと幸いです」

「ただ、本当に音が大きくてここ数日ほとんど眠れなくて…。もう少し工事を始める時間帯を遅くしていただくことはできないんでしょうか…?」

「そうですね…。責任者と相談はしてみますが、お約束はできない状態です。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

電話にでた担当者の方は、丁寧に対応しつつも、少しうんざりしているようにも思えた。なんと言われようとなかなか引かずに交渉しようとする僕に嫌気がさしたのか、担当者の対応はさらに冷たいものに変わっていった。その声を聞くうちに、僕も徐々に申し訳なくなってしまい、解決策が見つからないまま10分ほど話して電話を切った。
「朝7時から工事をしなくてもいいのでは・・・」というのが僕の願いであったが、理解を得ることは難しかった。

僕が工事会社に電話をした理由

ここまで読んだ方の中には、

「なんで工事の音くらい我慢できないんだろう…」

「わざわざ電話するなんて、クレーマーじゃないか」

そう思われた方もいるのではないだろうか。

その気持ちも、もちろん分かる。でも僕には大きな工事の音がどうしても我慢できないある理由があるのだ。

それは「聴覚過敏」だ。

聴覚過敏とは、周囲の音が非常に大きく感じられたり、不快に感じたりする感覚過敏の一種で、発達障害のある人が併発することが多いと言われている。

発達障害の診断を受けている僕は、小さい頃からこの聴覚過敏の症状が酷かった。

幼い頃は、花火大会に連れていかれると、その大きな音が耳に突き刺さるように感じ、その場に立っていることすらできなかった。また、甲高い犬の鳴き声も苦手だ。音が脳に直接ガンガンと響き、音が聞こえている間は、他のことを考えることすらできなくなってしまう。

実は冒頭にあげた工事音も苦手な音の一つだ。仕事の関係で帰りが遅くなることも多く、睡眠障害もある僕は、眠りにつくのがどうしても朝方近くになってしまう。朝7時から工事が始まると、どうしても寝る時間が短くなってしまうのだ。

もちろん、イヤーマフやノイズキャンセリングなどで不快な音を防ぐ工夫をしてみたこともある。しかし感覚過敏の症状もあるため、耳に素材が当たっている感覚がどうしても気になってしまい、逆にストレスを感じるようになってしまった。

せめて工事が始まる時間を少しでも遅くしてもらい、なんとかこの辛い状況を打開できないものか。そう考えて、電話をしたのだ。

おそらくこうした苦情電話が建設会社には山のようにかかってくるに違いない。だからこそ担当者の方の「またか…」という投げやりで冷たい態度も理解できる。また、読者の中に「工事の音くらいで電話をかけるなんて」と感じる方がいるであろうことも想像がつく。

それでも「なんとかしたい」と思うほどに、聴覚過敏は当事者にとっては切実な問題なのだ。

「迷惑をかける人」には何か事情があるのかもしれない

以前、「飛行機に乗っている赤ちゃんの泣き声がうるさくて我慢できない」とTwitterでつぶやいた方が、多くの人からバッシングを受けているのを目にしたことがある。

赤ちゃんが泣くのは当然のことだし、心無い言葉をつぶやいた方の行動は批判されるべき点もあると思う。

でも、Twitter上に溢れる

「なぜ赤ちゃんの泣き声ぐらい我慢できないのか」
「赤ちゃんは社会で育てるものなのに、それに文句を言うなんて非常識」
「赤ちゃんの泣き声にイライラするくらいなら、電車に乗らなきゃいい」

といった声を見ると、少し胸が痛んだ。

もしかすると、その方は聴覚過敏で、頭を抱えたくなるくらいの激痛に我慢できなくなり、思わず心無い言葉をTwitterに投稿しまったかもしれないからだ。我慢できなくなる事情が、もしかするとその方にもあったかもしれないのだ。

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最近、多様性が担保された寛容な社会を訴える人たちが、自分の価値観に反する、いわば「迷惑な人」に対して、声を大にして叩く場面をTwitterで見かけることがある。

「多少の騒音くらい、なぜ我慢できないのか」
「社会全体で赤ちゃんを大切にすべきなのに、なぜできないのか」

こうした正論に反論する人は、しばしクレーマーと呼ばれ「迷惑な人」と捉えられることも多い。

でも、もしかするとその「迷惑な人」には、その意見を言わざるをえない、何らかの事情があるのかもしれない。

本当に多様性が受け入れられる寛容な社会を目指すのであれば、迷惑な人を叩く前に、その人の持っている背景に想像を巡らせる人が増えてほしいと僕は思うのだ。

正論を振りかざして「迷惑な人」を叩いても、それは単に争いを生むだけだ。そうだとしたらお互いが抱えている事情をよく理解しあった上で、一緒に解決策を考えたほうがよっぽど合理的じゃないだろうか。

正論や持論で叩き合うのではなく、お互いの事情を理解して譲歩しあえる関係性を社会で作る方法を、少しずつ僕も考えていけたらと思う。

Photo by @chairulfajar_ on Unsplash

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