「生涯学習のなかの歴史学」(『歴史評論』)を読んで

『歴史評論』871号(2022年11月号)の特集「生涯学習のなかの歴史学」を読みました。
その中で、たびたび私がSNSなどで紹介している甲府の「カピバラ」や高円寺の「コクテイル書房」でやられている学術書などの読書会と共通性があると思ったのは、「学び舎歴史教科書のなかの市民学習会」という論考での事例でした(「学び舎論考」と略称)。一方、カルチャーセンターの講座などで行われている、「教える-教えられる」という従来型のものには、正直、私は興味があまりない(すいません)。

この「学び舎論考」で書かれていたいくつかの学習会は、私たちが高円寺でやっている読書会に近い、もしくは共感できるものでした。歴史書編集者である私が、歴史書の読書会をやっていて思うのは、「専門家に講師になってもらい、教えてもらうだけのものではつまらない」ということです。これだったら学校と変わらない。読書会・学習会の楽しさは、メンバーの間でフラットに意見をかわし、あるときはAさんの意見から学び、あるときはBさんの見方から学ぶ、いわば教える人と教えられる人が常に入れ替わるというもの。読書会の良さ・楽しさはそこにあると思う。
専門家以外で話し合っても勉強にならない、と思うでしょう。ところがそうではないのです。適切な課題図書を選び、それを真剣に読み込むことで本自体が講師となるので、それを媒介にしてメンバーがつながり、きちんと学び合うことができる。分からないことがあれば、教え合うことができる。というか、分からないことがあれば課題図書以外でも自分でどんどん調べたり勉強したりするようになる。少なくとも、これまで私たちがやってきた読書会ではそうなっています。「思想の科学」創設者の一人である哲学者・鶴見俊輔が言った「だれが生徒か先生か、のメダカの学校みたいなもの」に近いものが読書会ならばできる、そう感じています。もっとも、「教える-教えられる」型ももちろん必要なものなので、否定するわけではありません。しかし、専門家教育の場ではなく、一般社会(特に社会人)における「知」の需要を広げるという面では読書会はなかなか良い試みだと思っています。

また、日頃から思っているのですが、そういう読書会にこそ、メンバーとして(講師としてではなく)専門家も加わってもらえればより一層、力強いものになると思っています。さらに、私は前から言っていますが、編集者や書店員さんも(いや、編集者・書店員だからこそ)読書会をやって欲しい。
直接、読者の声が聞けるのが読書会なので、「本が売れない」と会社やお店で嘆いているだけでなく、街中で読者と出会い、そして読者と共に学問や本を世の中に広げていくことを編集者・書店員こそやって欲しいと思うのです。
そういう点で、上記『歴史評論』の「「新書」の中の歴史学」で話されている編集者の方はPOSデータから「歴史書の読者層は50歳代以上ですね」とか冷静に分析しているだけでなく、それを広げていくために自ら読書会をやって幅広い世代にまで学問や知を広げていく努力をしてはどうだろうかと思いました(余計なお世話ですが・・・)。
読者は数字として存在するのではなく生身の人間で、実に様々な読者がいるということを読書会をやってみて私は感じています。それに、少なくとも、私たちがやっている歴史書の読書会に参加されている方の半数が30歳代以下の人ですし(POSデータとは異なる)。そういう中で、参加してくれている若い大学院生の方々の力は本当に大きい。こういうこれから専門家になっていく(なっていきたい)という世代の人が色々な世代の「一般読者」と出会える場が読書会だし、その対話によってお互いに良い刺激を受けています。
今後は、こういう読書会についても「生涯学習の場」として取り上げて欲しいものです。