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エチオピア現代史における女性兵士  ―ティグライ人民解放戦線の経験―

           眞城百華(上智大学教員、エチオピア現代史研究)
                        (2020年5月21日)

 「エチオピア」と聞き何を想起するだろう。アフリカの独立国、ハイレセラシエ皇帝、イタリアのムッソリーニ政権による侵略、1984年の大飢饉などがよく挙げられる。世界的ミュージシャン達による飢饉救済のためのLIVE AIDなどの音楽イベントを通じて、1984年から85年にかけて甚大な被害を生んだエチオピアの飢饉を知った方も多いだろう。エチオピアの飢饉と支援に国際的関心が集まったが、同時に飢饉の被災地が当時内戦の戦場でもあったことをどのくらいの方がご存じだろうか。そして当時のエチオピアの軍事政権と戦う反政府勢力には数万人もの女性が兵士として参加した。このことは、エチオピア国内においてもほとんど知られていない。
 著者がエチオピア北部のティグライ州で元女性兵士に初めて会ってから17年になる。元女性兵士や紛争下の農村でゲリラ支援の活動に従事した女性たちに、戦後10年以上が経過した時期からその経験を聞いて回っている。今はみな民間人として農村や地方都市などで働いて生きている女性たちである。若い世代は近所であっても誰が元女性兵士だったか知らない人がほとんどである。しかし、村で少し年長の世代に元兵士だった女性に会いたいというとすぐに数名の名前が挙がる。牧歌的な風景が広がる農村が、かつてゲリラ戦が展開される解放区となり軍事政権から攻撃対象となった地域であったことを実感する瞬間である。兵士や内戦支援にかかわった女性たちはどんな経験をしてきて、女性たちはそれぞれの経験をどのように振り返っているのだろうか。
 
 エチオピアは、アフリカの独立国と称されるが、その裏側は現在のエチオピア高地に居住するアムハラとティグライという2民族がアフリカ争奪戦の中で列強と交渉や対立を繰り返した。アドワの戦いを率いたメネリク皇帝が、英仏伊3か国と境界条約を結び、他方でエチオピア帝国の版図を南部に拡大して支配し、現在にも継承されるエチオピア帝国の版図を決定した。皇帝を頂点とした政治体制を十数世紀にわたり継承してきたが、1960年代から増加した知識人たちの中から皇帝を頂点とした階級制度や皇帝の出自でもあるアムハラ民族中心主義に対する異議が唱えられ、その動きは大学や高校における学生運動や教師や知識人による運動、そして民衆の抵抗運動にも拡大していった。
 1974年に生じたエチオピア革命は、軍部が主導する形で進行し、ハイレセラシエ皇帝は廃位された。革命後に軍部が政権を掌握したために60年代から続いた学生運動の影響は長らく着目されてこなかった。エチオピア帝国の変革を唱えていた学生運動や労働運動を主導してきた人々の中から軍事政権の成立に反対して多様な勢力が結成された。これらの組織はエチオピア各地で勢力を結集し、軍事政権に対する反政府活動を展開した。1974年から1991年までのエチオピアにおいては、政治主張、階級や民族などを異にする多数の反政府勢力が各地に乱立し、軍事政権と対立しつつ支持層をめぐり諸勢力間でも争いが多発するなどエチオピア各地で紛争が生じた。

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地図:現在のエチオピア(最北部のティグライ州がTPLFが主に展開した地域)

TPLFとティグライ
 1975年に最北部のティグライ州で結成されたティグライ人民解放戦線(TPLF)も、これらの反政府組織の一つであった。1974年9月に革命後の中央権力を軍事評議会(デルグ)が掌握すると、それに反対した7人のティグライ出身の大学生がティグライ民族組織(TNO)を結成した。これらの学生は、首都の大学における学生運動に参画し、マルクス主義や革命思想を学んできた。TNOは、エリトリア独立を訴えるエリトリア人民解放戦線(EPLF)と連携を取り軍事訓練も開始した。1975年2月18日、TNOの7名に新たに4人のメンバーを加え、TNOを基盤にTPLFが結成された。ティグライ州でも複数の反政府組織が結成されたが、その中でもTPLFはエチオピア国内におけるティグライ人の民族自決と社会主義革命を目標とした。TPLFは主にティグライ州を拠点とし、ティグライ民族、特に人口の9割を占める農民層を支持母体とした。TPLF内では合議により方針が決定され、議長、中央執行委員会が最高意思決定機関となった。組織としては軍事部門に加え、政治、外交、社会経済などの諸部門が設置された。マルクス・レーニン思想の影響は色濃かったものの、実際の政策においては同じくマルクス・レーニン主義を標榜した軍事政権との政策の差異化が図られた。ソ連やキューバなど社会主義圏からの支持を得た軍事政権は、これらの国々から潤沢な軍事支援を受けたのに対し、TPLFは社会主義を標榜しつつもこれらの東側陣営との連携をほぼ絶たれ、冷戦下で西側諸国の支援も得られず苦しい戦いを迫られた。1975年から1991年まで17年間に及ぶ軍事政権との内戦を繰り広げたTPLFを支えたのはティグライ州における農民からの支持であり、農民との紐帯を基盤に徐々に影響力を拡大した。結成直後の1976年には120名しかいなかったTPLF兵士が、17年の内戦下で約5万人の戦死者をだしたものの、1991年には約7万人の兵士を抱えるまでにその規模は拡大した。

ティグライ女性とTPLF
 1975年にティグライ州西部で結成されたTPLFには、結成直後から女性も参加した。結成直後に参加した女性たちの多くはTPLF結成の母体となった帝政期の学生運動に参加していた女性たちである。ほとんどは裕福な家庭出身であり、高等教育を受け、高校、教員養成学校や大学で学ぶことができた10代後半から20代初頭の女性たちであった。学生運動の中で、階級闘争や民族の解放に加え、女性の解放についても議論を重ねてきた女性たちは、TPLFにおいて女性メンバーからなる女性委員会を非公式に結成し、TPLFにおいて女性解放も政策に組み入れるよう働きかけた。

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写真1:TPLF結成直後に参加した女性兵士が結成した女性委員会の中心メンバー(TPLF史料館提供)

農村女性とTPLF
 当時のティグライ州には農村には小学校もなく9割を占める農民は教育を受ける機会がなかった。高校も州内に3校のみであり中等教育を受けられるのは貴族や富農の出自の若者だけだった。さらに家父長制のジェンダー規範が強く作用していたために、女子学生の数はさらに少なかった。これらの点を加味するとTPLF結成直後に参加した女性メンバーは同地域の女性の中では特権的地位にあったことがわかるだろう。初期からTPLFに参加した一部の女性メンバーは、帝政末期に学生運動の中で革命思想に触れ、また欧米に留学した友人たちが伝える女性解放の思想を学んでいた。
 TPLFの創設メンバーの多くも富裕層出身であったが、TPLFの支持をティグライ州で獲得するためには人口の大半をしめる農民の支持を獲得することが不可欠であった。TPLFにより動員の対象とされた農民と若者にくわえ、女性幹部が農村の女性を動員することはTPLFの戦略と合致した。しかし、TPLFの女性幹部たちは農村の女性たちを兵士として戦場に動員することを当初は想定していなかった。女性幹部たちが農村を訪問し、村の女性たちと直接コンタクトをとるようになると、農村女性は知識人の女性たちよりも強固な家父長制のジェンダー規範に縛られた人生をおくっていることがわかってきた。

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写真2:TPLFの女性兵士と接するアファール人の女性たち(TPLF史料館提供)

 同じ民族でありながら出身階級の異なる女性たちが、内戦下で接点を持つことになった。TPLFに参加した女性は、断髪してアフロヘアになり、軍服を着用し、銃を携帯するなど男性兵士と全く同じ身なりをした。TPLFの女性兵士が農村女性と話すために家を訪問すると、夫の不在時に男性兵士が家に来たと誤解され、女性や家族に追い返されたこともあったという。女性兵士は女性だとわかってもらい警戒を解くために、農村女性の前で服を一部脱いだり、服の上から体を触らせる必要があった。農村女性と接することになった女性幹部は、同じ民族、女性でありながら農村女性たちが自分たちよりも非常に厳しい家父長制の下、生活や人生の決定を自身で下すことも、教育を受けることもかなわない状況にいることをしった。早婚の習慣のために当時は女性が10代を迎える前に結婚することも多く、10代を迎えるとすぐに妊娠、出産する女性が多くいた。初潮を迎える前に妊娠、出産を繰り返したためすでに子供が何人もいる母親でありながら、10代後半になって初めて生理を経験した女性から自分は病気ではないかと相談を受けた女性幹部は、貧困や家父長制だけが問題なのではなく、女性たちへの教育の必要性も痛感したと話してくれた。
 階級を超えた女性たちの対話は、内戦下のティグライ社会に大きな変化をもたらした。女性幹部たちは農村女性の解放の必要性をTPLFの中央委員会にも訴え、TPLFは女性からの支援も見込んで独自の女性解放政策を実施した。早婚の禁止と結婚最低年齢を15歳以上とする規定、持参金の義務の廃止、女性の財産権の保障、離婚における女性の権利保障、女性の負担軽減、女性の教育レベルの向上、女性の政治参加の推奨など一連の女性解放政策が家父長制の強い影響下にある農村に導入された。同時に、TPLFによる農村における女性の組織化も始まった。つまり女性の解放と女性によるTPLF支援は通底している。

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写真3:シェラロ村評議会における女性の政治参加(1988年)(TPLF史料館提供)

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写真4:テンベン、アビ・アディにおける3月8日国際女性デーの式典(1984年)(TPLF史料館提供)

 TPLFの大衆動員部門の幹部の働きかけにより、これまで村の行事や宗教行事の裏方としてしか集まることを許されなかった農村女性たちが一堂に会し、自分たちが居住する農村の女性指導者を選出し、女性が抱える問題を話し合う場が設けられた。父親や夫、兄弟の監視下で重い家事負担や農作業に追われていた女性たちが、軍服を着た兵士に動員されて女性たちだけで会合を開催する、それだけでも当時の農村では簡単なことではなかったとある女性は回顧する。

「私はまだ結婚したばかりで10代後半、子供もいなくて活発だった。住んでいた地域全体がTPLFの解放区になったので、村の男性たちが軍の攻撃から村を守ってくれるTPLFを受け入れたことは知っていた。ある日、TPLFの女性幹部が私の家にやってきて、軍事政権と戦うために女性たちの支援が必要だと訴えてきた。軍服を着た女性たちに興味もひかれて、私も夫に黙って女性幹部が開く女性の会合に参加した。女性幹部は、TPLFの支援が必要なだけではなくて、村の女性たちが抱えている問題を話してほしいと女性たちの前で説明した。問題があればTPLFはそれを禁止するから、と。とても信じられなかったけれど、TPLFは村の男性たちとも連携していたから、男性たちにもTPLFの女性政策を受け入れるよう説得してくれた。私はとても活発だったから、すぐに女性グループで指導的な役割を担うようになった。TPLFを恐れて、また家族の反対があって女性の集会に出てこない女性たちの家を一軒一軒訪問して、女性幹部が説明してくれたようにTPLFが女性の問題を解決してくれること、軍事政権と戦うために村の女性の力が必要なことを伝えて回った。村の男性の多くはTPLFに賛同して兵士となっていた。村に残った女性たちも自分の夫や兄弟、息子がTPLF兵士となった人から、自分たちも家族のためにTPLFの活動に参加すると女性集会への参加を受け入れてくれた。村の男性の中には、女性たちが家から出て家族のためではなくTPLFのために働いたり、女性の権利を主張する集会に参加することをよく思わない人もいた。女性集会に頻繁に参加する私をよく思わない隣の家の男性が、陰で私の夫に私と離婚するよう強く勧めていたこともあった。私はそんなことは気にしなかった。女性たちで話し合ったり、問題を共有したり、一緒に兵士のために調理することはとても楽しかった」。

 早くから地域全体がTPLFの解放区となったのは、幹線道路からも遠く離れた農村が多かった。農村の女性たちは、自分たちの代表となる女性を選出し、その代表の女性はTPLFの政治教育キャンプに送られた。子どもを家族に託したり、幼い子どもを連れて徒歩で一日以上もかかる遠隔地にある政治キャンプで1週間から2週間、TPLFの理念を学び、その理念を村に伝える役割も村の代表の女性は担った。村ではTPLFの大衆動員部門のメンバーからの指示を受けて支援活動を行った。農村の女性の中には、TPLFから選ばれて諜報活動を行う女性や男性の大半が兵士となり農村を離れたために文民のまま軍の攻撃から村を防衛するために軍事訓練を受け銃の扱いを覚えた女性もいる。
農村女性たちにとってエチオピア革命とその後の軍事政権の成立は、同地域が反政府勢力であるTPLFの勢力下にあったために軍事弾圧の対象ともなったが、他方でTPLFの影響力の拡大に伴い、内戦下で女性の地位向上や活動領域の拡大を経験することになった。TPLFは解放区において土地改革を実施し、慣習を覆し女性にも農地となる土地を配分した。また女性の代表は、TPLFが組織した村を統治する村民委員会にも議席を与えられ、村の方針決定にも参画する機会を得た。自身の人生を決定することも、自身の意見を述べることも許されなかった農村の女性たちが、内戦下で得た権利は非常に大きい。内戦中に農村女性たちが諜報活動や農村支援、兵士への支援において果たした貢献もほとんど知られていない。戦況が厳しい時期には、女性たちは昼夜分かたず砲撃を続ける部隊のために戦場まで調理した食事を運び、砲撃を行う兵士ひとりひとりに食料を配布して回るなど戦場でも支援した。農村女性たちへのインタビューを通じて、女性たちが支援を強制された事実は窺えなかった。女性たちの負担は、TPLFの解放区で決して軽くなってはいない。男性の多くが出兵した後の村で女性たちは家事負担に加え、子供や老人、家畜の世話、農作業を男性労働力がないために自身が中心となって家計を回さなくてはならなかった。それに加えて、兵士への炊き出しや物資の調達、政治キャンプへの参加、密偵などの特別な任務も担った。

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写真5:TPLF兵士のために調理をした食料を戦場に運ぶ女性たち(1988年)(TPLF史料館提供)

 TPLFも女性のための農業指導や出兵家族のための共同農作業などを計画し女性の負担軽減を図ったが、村全体で男性労働力が減少する中、女性たちは懸命に働いた。村全体が軍事政権からの攻撃にさらされ、TPLF以外に頼る組織がいなかったことも要因であろう。しかし、TPLFが女性解放政策を実施していなければ、家族も女性も家父長制の伝統を主張し、TPLF支援に女性たちが関与することを拒否したかもしれない。ある農村の女性は、当時の状況をこう振り返る。

「確かに軍事攻撃を受け、男性が出兵し、女性の負担は大きかったが、女性組織で互助体制を作り、軍によって焼かれた家を女性たちだけで再建したことがあった。女性だけで家を建設できるとはとても思わなかったけれど、女性だけでできることがあることがうれしかった。TPLFは女性の支援をしてくれた。もちろん十分ではなかったし、村の中の女性の地位もすぐには変わらなかったけれど、女性たちの助け合いができたことはとても大きいことだった」。

 内戦という非常に過酷な環境下にあっても女性を解放し、権利を擁護する諸政策は、TPLFに呼応した農村の女性たちに農村の防衛のため、家族を守るために支援の場でエージェンシーを発揮する場と機会を与える契機となった。

女性兵士の経験
 農村におけるTPLFの女性解放政策は、農村の変革のみならず、戦場への女性兵士の参画を後押しした。男女ともに軍事政権による弾圧と攻撃に反発し、TPLFに兵士として志願した。TPLFも兵士に志願するよう村々で呼びかけたが、男女ともに強制動員は行っていない。志願者は希望すれば兵士とならず後方支援に従事することも、また難民として国外に流出する道も選択することはできた。ティグライ州では男性兵士だけでなく2万人以上の女性が自ら志願して戦場で戦う兵士となることを選択した。終戦時に約7万人いたTPLFメンバーのうち、約3分の1にあたる2万人が女性兵士だった事実からもTPLFにおける女性兵士の貢献や重要度が推察できる。
 元女性兵士たちへの聞き取りから明らかになったのは、女性たち特有の志願理由であった。先に述べたようにTPLFがティグライ州各地で実施した女性解放政策は、農村の女性たちにTPLFへの支持を拡大する要因の一つとなっていた。軍による村や家族の攻撃に加え、各地で女性に対する暴力を日常的に行使した軍事政権の軍隊と対比すると女性たちがTPLFを支持するのはごく当然の流れであり、反軍事政権が志願理由で真っ先に挙げられる。他方で女性兵士に特有の志願理由は、TPLFが女性解放政策を採用し、これまでの政権や軍のように男性だけを対象とした政策ではなく女性のためも戦っていることにあった。僻地の農村にも女性兵士が巡回し、村の男性を前に臆せず女性も政治を変革するためにTPLFは必要としている、と女性兵士の志願を訴えたことが印象的だった、という点が志願の動機としてよく語られる。さらには、農村における家父長制のジェンダー規範から逃れるために、兵士となる道を選んだ女性も多数いることが明らかになった。
 女性兵士の志願は、男性兵士よりも家族や社会の同意を得ることが難しかった。息子や夫が戦場に行くことが許されても女性が戦場で武器を持ち戦うことは特に農村では想像もされないことであった。70年代にTPLFに志願した女性たちは地方都市出身で初等教育を受ける機会を得たことがある女性が中心であった。これらの女性たちもすべて数週間の軍事訓練を受け、戦場に配備された。しかし、のちに兵士が拡充されると経験と一定程度の教育を受けた女性たちは、大衆動員や行政管理などの後方支援に回った。当時の女性兵士は非常に少なく、30人の部隊のなかで女性兵士は2~3名しかいなかった。
 80年代に入ると、TPLFと軍事政権の交戦は激化し、TPLFは兵力拡充のために女性兵士を全兵士の3分の1まで拡大する方針を発表した。あくまで志願制は維持したが、ティグライ州各地で女性にも兵士としての参加が呼びかけられた。農村におけるTPLF支持が、女性兵士動員の下地となった。農村において、TPLFの女性解放政策が知られるようになり、女性の活動の拡大や権利の保護が進む過程をつぶさに見ていた女性たち、とくに若年女性たちが農村における支援のみならず兵士としてTPLFにより貢献する道を選択した。女性が兵士となることへの反対が根強く、多くの女性たちは闇夜に紛れて村を去り、TPLFのキャンプを目指した。12歳など若年で志願した少女は、若年であることを理由に入隊を拒まれ、後方支援に回った。16,7歳以上の年代の女性が兵士に志願した。その多くは独身女性であったが、興味深いのは夫や子供をおいて志願した女性たちも含まれていた点である。これらの女性兵士たちは親が決めた望まない結婚をさせられた場合が多かった。さらにごく少数であるが貧困や家庭内における過重労働から逃れるために、兵士となる道を選択した女性もいる。TPLFの女性解放政策は確かに解放区の農村に変革をもたらしたが、既婚女性の家庭内における地位の低さは変わらず、農村内における活動にも制限があったことがわかる。
 ある女性は、農村でもTPLFの女性組織や青年組織の活動に15歳から活発に参加していたが、兵士としての志願も希望していた。それを知った親が、戦場にいかせないために強引に結婚をさせようと画策したが、TPLFの兵士だった兄が父親を説得して妹の結婚を阻止した。兄にも説得されて女性は農村での支援活動を続けたが、数年後に兄の戦死の報が届いた。兄の死に悲嘆にくれたが、他方で父親が再び結婚を強制し始めたために、兄の死に報いるために、親の反対を振り切って兵士として志願したと語ってくれた。

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写真6:入隊後の軍事訓練 銃のかわりに木の棒で訓練(TPLF史料館提供)

 入隊した女性たちは、断髪し軍服を身に纏い、数週間の軍事訓練に参加する。夜には作戦に加え、政治教育も受けた。農村出身で読み書きも満足にできない兵士は、同じ部隊の仲間から読み書きや計算などの基礎教育を受けた。80年代に入ると戦局も厳しくなり、軍事訓練を受けるとすぐに戦場に送られた。女性兵士の増大に伴い、部隊における女性たちが抱える問題を共有し、議論するために、女性幹部たちは非公式であった女性委員会を拡大し、1984年、TPLF内に女性兵士協会を結成した。TPLFの内部に女性のためだけの新組織が結成されることに男性からの反対も一部で上がったが、女性幹部たちは粘り強く女性の権利擁護のために同協会の必要性を説き、設置が承認された。女性兵士協会は、男性兵士よりも教育の機会が限られていた女性兵士のためにMartha Schoolという女性兵士の基礎教育のための学校を開設した。同校は戦況の悪化に伴い、数年しか開校されなかったが、戦場で女性兵士が正規の教育を受ける貴重な機会となった。

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写真7:1978年ごろのある1部隊の写真、まだ女性兵士は1部隊に数名のみ(TPLF史料館提供)

 女性兵士が戦場で直面した困難は枚挙に暇がない。負傷、友人や同志の戦死、過酷な戦闘や行軍…。インタビューの間、これらのつらい体験は、非常に淡々と、そして短く語られる。あたかも亡くなった同志を一人一人思い出しているかのように。平和な時代に生まれた元女性兵士の子どもたち世代も、実際に母親の戦場での体験について詳しく聞いたことはなかったという。戦闘中に亡くなった同志の遺体を埋葬もできずに撤退せざるを得なかった。たとえ埋葬できたとしても遺体や遺品を家族のもとに届けることもできなかった。正規の国軍の兵士ではなく、ゲリラ兵であるTPLFの兵士たちは、戦乱の中で十分な人員管理も行われず、現在も17年間の戦闘で亡くなった兵士の総数も概数でしか示すことができない。インタビューしたほとんどの女性兵士は、銃弾により負傷した経験を持ち、今も後遺症が残る人も多い。腰骨にまだ銃弾が残っている、頭に砲弾の破片がある、左腕に銃弾を受けて今もしびれが残る、内臓を銃弾で損傷し感染症や癒着の影響が今も残る…。よほどの重傷者でなければ、服をめくり銃弾の痕を実際に目にすることがなければ、兵士であったことを隣人であっても知りようもない。
 女性兵士たちが戦場での困難について多く触れたのが生理の問題だった。十分な物資もない中、山野に数か月も展開する部隊に配属されると十分な食料すら確保できない日々が続いた。時には山野で野生のネズミや蛇を捕獲して食べるしかなく、飲み水がないときは尿を飲まざるをえないことすらあった。このような過酷な戦場での物資不足では女性兵士に生理時用のガーゼや布さえ補給することが叶わなかった。特に過酷だったのは生理中に戦闘が展開された時だったと、ある女性兵士は振り返る。

「当時は、ズボンは膝丈にも満たない短ズボンが1枚しか支給されず、生理中はそのズボンが血に染まった。それでも行軍中は草などで何とか隠したが、戦闘が始まるとかまっていられなかった。ある時、戦闘が1昼夜以上続き、銃撃の配備された場に立ち詰めで交戦する激戦になった。血液がズボンから染み出し脚を伝う感触はするが、銃を構え続けているのでそれをぬぐうことも隠すこともできなかった。戦闘が終わったとたん意識を失い、倒れた場所が悪く崖から転落したこともある。激戦が理由ではなく、生理中であったことが原因だと思う。替えのズボンが欲しかったし、水場があればすぐにでも血液を洗いたかった。戦場となった乾燥した岩がちな山中では、飲み水を確保することすら困難だった。同じ部隊の男性兵士が、女性同志が水がなく血液を洗い流せないことに気づき、貴重な飲み水をそっと提供してくれることがあった」。

 同様の例は他の女性兵士からも聞かれた。戦場で男女の兵士が同等の扱いを受けたこと以上に、この血液を洗い流すために貴重な水を提供された経験が最も驚いたと振り返る。家父長制の影響が強い農村では、女性が身体的につらい状況でも女性に水を汲みに何キロも歩いていくことを要求してきたが、戦場という生死がかかった過酷な場で男性が女性を気遣うだけでなく、貴重な飲み水まで提供してくれた。この時ほど自分は同じ部隊の同志として男性兵士に認められた、と感じたことはなかったという。
 話を聞いた女性兵士たちの中からは、つらい体験とともに兵士としての誇りも語られた。農村でTPLFによる女性解放が進んだが、年齢が上の世代は女性解放に理解を示さなかった。そのため、女性たちの中には、男女が共に政治改革に貢献できる場、つまり男女の平等が実現される場として兵士となることを選択したと説明する女性も多い。部隊の中では男女の差なく、調理や裁縫、銃弾の運搬など分担された。男性兵士も命を預けあう同じ部隊の同志として女性兵士を扱ってくれた。ある女性兵士は、自分が部隊の中で音を上げるとTPLFにおいて女性解放が認めてもらえずもとの女性の地位に逆戻りしてしまうと思い、歯を食いしばってつらい行軍を乗り切ったと語る。女性兵士たちは与えられた女性解放を享受したのではなく、女性解放を体現し継承する役割を自覚して兵士として志願し、部隊の中でその役割を十二分に果たす存在となった。
 厳しい戦乱の中、男女平等が達成されていたのは、戦場の部隊の中であった。女性兵士が、男性兵士を含めた部隊の長となることもあった。結婚が許容された後、結婚するかどうか、だれをパートナーとするか自分自身で決定した。女性兵士の意見がTPLF全体の会議で聴取され、議論された。女性、男性の別なくともに戦う同志として扱われた日々を、戦争後も懐かしむ女性兵士が多くいる。

戦後のティグライ女性
 冷戦の崩壊により、ソ連からの支援を失った軍事政権は徐々に弱体化し、1991年5月、TPLFは他の民族政党と連合を組み軍事政権を崩壊させた。17年にわたる戦いがようやく終焉を迎えた。TPLFは暫定政権における中核を担い、1995年の総選挙を経て成立した新政権、エチオピア連邦民主共和国の初代首相にTPLF出身のメレス・ゼナウィが就任した。TPLFは国政でもティグライ州でも与党としてその地位を盤石なものとした。TPLFの下で厳しい内戦を戦った兵士や人々にとっても新しい門出となった。内戦下から解放区でTPLF主導の自治を実施していたティグライ州では、戦後の再建は内戦の延長線上にあった。
 男女とも同じ兵士として貢献し、その功績も認められていたが、戦後の歩みは女性兵士にとって新しい道の選択を迫った。暫定政権を率いたのは複数の反政府勢力の連合でありTPLFもその一翼を担った。軍事政権の軍人に加え、反政府勢力にも多数の兵士がおり、新政権下で国軍を再編する際に、男性兵士のみ国軍に登用し、女性兵士は除隊をすることが決定された。男性兵士でも和平後に除隊の道を選ぶものもいたが、女性兵士には選択の余地がなかった。TPLFの兵力の3分の1にも達した数万人の女性兵士の中で、新設の国軍に残ることを許された女性兵士は若干名だけであった。また、その多くは軍内の行政に関与するものがほとんどで、数名の女性兵士のみ軍務につくことを許された。ある女性兵士は除隊を命じられたが、軍人として10代から戦ってきた自身のアイデンティティを失いたくないと、TPLFや国軍の上層部に軍に兵士として残ることを直訴した。
 除隊した女性兵士の人生も多様である。除隊一時金をもらって村に戻ったもの、戦中に結婚した夫とともに新天地で新しい生活を始めたもの、正規の教育や職業訓練を受けるために集中プログラムに参加し、専門職の資格を得た者もいる。除隊兵士の中でも、農村にもどり居住もしくは農業を始めるものは、申請をすれば宅地と農地を地方政府から配分されることもできた。夫婦で農地を得て、村で農業を始める元兵士も多い。しかし、戦後の目まぐるしい変化の中で、女性兵士たちの戦後は決して平穏ではなかった。銃傷による感染症で寝付くことが多く、土地の割り当て申請に間に合わずに土地を得られなかった人、除隊一時金を家族にTVを買うためにすべて使ってしまい新生活を始めるにあたり資金不足に陥った女性、除隊し、武装解除で銃の回収をせまられたが、戦中に自分を守りアイデンティティでもあった銃を手放せず、上司に掛け合って弾薬だけを返却して銃の保持をかろうじて認められ今も大切に持ち続けている女性、夫が他にパートナーを作って離婚されシングルペアレントとして生活苦に陥った女性など、元女性兵士が和平後に迎えた困難は十人十色である。興味深いのは、戦争が終わり、ジェンダー平等が図られていた部隊の仲間や夫婦の関係にかつての家父長制的ジェンダー規範が再び作用し始めたことにある。部隊の仲間は平等で男性も女性も調理をし、重い武器弾薬をともに運んだ。だが、戦後に元同志だった夫は、村にいた男性たちと同じように妻である元女性兵士に調理や家事を命じ、女性が外に働きに行くことも教育を受けることに反対することも珍しくなかった。反発した女性たちは離婚を迫られた。離婚後の財産分与は戦後も守られていたが、子供の養育費も払わずに夫は従順な女性を新しいパートナーとした。元女性兵士には離婚した女性や戦争で寡婦となった女性が多く、シングルペアレントとして厳しい歩みを経験している。
 TPLFの女性政策は戦後も継続され、ティグライ州の州議会は男女比が半々であり、TPLF選出の国会議員も女性が3割以上を占める。TPLFの女性幹部の中には、大臣、国会議員、州議会議員や州の各部局の長として影響力を維持するものも多い。一兵卒として活躍した女性兵士の中にも、社会復帰プログラムを利用して教員や看護師など専門職を得て、戦後のティグライ州の復活に寄与した女性も多い。
 戦中の女性の貢献が一部で認められ、女性の躍進もみられるものの、特に農村では揺り戻しのように家父長制的ジェンダー規範の復活が顕著な例も多々ある。ティグライ女性兵士協会は戦後にティグライ女性協会と名を変え、NGOとして再出発した。ティグライ州内全域の女性をメンバーとする同組織は、今も女性の権利擁護と女性の自立のために活動を継続している。TPLFを支援した農村女性や元女性兵士の多くも女性協会で指導的地位を得て、自身が内戦下で経験した女性解放を、和平が到来した後も後退させないために、草の根の活動の中で支援し続けている。

 2020年2月、ティグライ州でTPLFの45周年結成記念大会が盛大に開催された。2018年から政権中核における影響力を徐々に喪失し、2019年11月に与党の再編に反発し、結果的に与党から脱退したTPLFにとって、2020年に予定されていた国政選挙(COVID19の影響により8月開催の延期決定)の帰趨を決するため、TPLFへの支持を確固とするための重要な式典となった。

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写真8:TPLF45周年記念式典における戦闘時代の回想パレードに登場した女性兵士(著者撮影)

 式典にはTPLFの女性兵士たちの一部が戦闘時代の戦闘服を着用して参加したのみならず、内戦期を知らない10代から20代の少女たちも戦闘服を着用して式典に参加した。支持基盤を強固にするために内戦下での苦難や内戦を終わらせた英雄譚が語られる一方で、内戦の厳しさを顕著に示したのは17年間の内戦や政治迫害によって亡くなった人々の遺影を掲げた若者たちの行進である。党もすべての戦死者の記録を把握できていなかったために、村々で戦死者の家族から提供された遺影が式典のために集められた。これらの遺影の中には多数の女性兵士が含まれていた。政治的結束を強化するために過去の犠牲を喧伝する政治的意図が強く表れていたが、兵士として戦場でこれら戦死者が家族や友人、部隊の同志にいた者たちにとってはまた別の深い感慨が去来しているようであった。自身もトラウマや障害や生活苦を抱えつつ、ともに戦った戦死者たちの写真を見る元女性兵士のまなざしには政治的熱狂は感じられない。達成された戦後の平和が、政局の展開でまた新たな変動を迎えようとしている。20代から戦い、戦後の復興を担い、それぞれの職場で定年を迎えようとしている元女性兵士たちは自身の人生をどう振りかえるのか。

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写真9:式典のために集められた戦死者の写真(著者撮影)

 アフリカにおける紛争はいまだに多くあるが、戦場で実際に戦ったゲリラ兵が、自身が戦った紛争にいかに関与し、その経験が兵士にとって何だったのかについて十分議論されていない。女性兵士についてはさらに戦後、家父長制的ジェンダー規範が揺り戻すため、兵士であった事実さえ明らかにすることが難しい。アフリカの他の地域の紛争においては、性奴隷に近い扱いを受けたために、紛争に関与したことを女性兵士が戦後にひた隠しにして生きる場合もある。しかし、本稿で述べてきたように、紛争に巻き込まれ多くの被害や犠牲をしいられながら、与えられた環境の中で自身の力を発揮し、人生を選び取っていった女性たちが多数いたことも事実である。知ろうとしなければ話を聞いてもらうことも、その体験や感情を知られることもない女性たちの経験を組み入れたとき、紛争やジェンダーや民族史の理解は必ず再編される。フィールドに通いだして15年以上たってもまだ新たな発見に驚くことがある。いまだ生活環境としては厳しい農村で、想像もできないような経験をしてきた女性たちが、自身の人生を振り返って何を語るのか、自身の人生をどう振り返るのか。彼女たちに寄り添い、その語りから何を学び取っていくのか、試されているのは研究者自身である。