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エルンスト・ユンガーと私たちの20世紀

         糸瀬  龍(東京都立大学人文社会学部ほか非常勤講師)

      ※写真は第一次世界大戦後、「プール・ル・メリット」勲章
       などを受賞した頃の若きユンガー。


◆エルンスト・ユンガーとは誰か
 以前ある著名な文芸批評家と会った際、「エルンスト・ユンガーの研究をやっています」と自己紹介した私に対して、その批評家は「あー、戦争の人ですね……」と応答した。「戦争以外にもいろいろあるんですよ」と言いかけて、しかし私はそれ以上二の句を継げなかった。ユンガーは「戦争の人」なのだ、そこから出発してもっとこの作家の振幅や思想の内実を解き明かしたいし、世の人々に知って欲しいというのが、これまで飽きもせずユンガーについて考えてきたことの動機である。ユンガーが作家活動を始めたドイツ・ヴァイマル共和国期は、ユンガーよりも多大な思想的足跡を残した思想家や、現在までユンガーとは比べものにならぬほど多くの読者を獲得してきた作家に事欠かない。現在でも、エルンスト・ユンガーと聞いてピンとくる人に出会うことは極めて稀である。ユンガーの取り柄は、ではどこにあるか。一つは、彼が死ななかったことだ。「戦争の人」エルンスト・ユンガーは、第一次世界大戦での従軍経験から出発する。19歳で志願兵として従軍したユンガーは、重いものだけでも7度の負傷を経て、敗戦間際にプロイセン軍の最高勲章「プール・ル・メリット」を受けて敗地へと帰還した。この戦争を出発点として、そこからほぼ延々と彼の思考が紡がれることとなったのだ。ユンガーが「戦争の人」といわれるのにはそのような背景がある。
 1982年、ユンガーは、フランクフルト市からゲーテ賞を受けた。ゲーテ賞とは、諸芸に卓抜な成果をあげた文人、芸術家、科学者などに授与される賞で、1927年の第一回受賞者シュテファン・ゲオルゲを筆頭に、翌年が医師シュヴァイツァー、30年のフロイト、45年の化学者マックス・プランク、46年にヘルマン・ヘッセ、47年はカール・ヤスパース、49年にはトーマス・マン、61年の建築家ヴァルター・グローピウス、近年では2008年の舞踏芸術家ピナ・バウシュなど、その分野に関心のある向きならそれぞれが納得するだろう人々に授与される賞として広く名を知られている。ユンガーが受賞することになったきっかけは、ユンガーのナチ体制下の行動を反ナチ的活動として称揚すべきだというユダヤ人ジャーナリストRudolf Hirschの推挙であった。ところが授賞式がおこなわれた8月28日、会場となったフランクフルト・パウル教会の外で、緑の党を中心とするユンガーのゲーテ賞授与に反対する人々が激しい抗議活動をおこなった。彼らの主張は、ユンガーはナチズムの先導者であり、明白にアンチ・デモクラシーであり、この作家が非道徳的である、ゲーテ賞などに値するはずはなく、まして1849年ドイツ憲法制定国民議会の舞台となったパウル教会での授与など到底認めることはできない、というものであった。
 何やら危険な雰囲気の漂うこの作家の名を初めて私が目にしたのは、批評家ヴァルター・ベンヤミンの「ドイツ・ファシズムの理論」という短いエッセイである。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』を講読するゼミがおこなわれている大学をパンフレットで見つけ、そこのドイツ文学専攻を選んだ当時の私は、卒業論文ではこのベンヤミンかあるいはトーマス・マンを扱うことになるだろうとぼんやりと考えていた。自分もその中に生きている20世紀(その中には日本の敗戦も含まれている)を考えるにはどうすればよいか。この二人のビッグ・ネームのどちらかを勉強することで当時の自分の課題が解けるような漠然とした希望があった。ベンヤミンが件の小論のターゲットとしていたのがユンガーが編集した論文集『戦争と戦士』(1930年)である。『戦争と戦士』はエルンスト・ユンガーが弟のフリードリヒ=ゲオルクらとともに作った論集で、ベンヤミンの文はこの論集の論者を徹底的に批判している。ところがユンガー兄のエッセイ『総動員』についてはベンヤミンはほんの少しであるが評価しているのである。これはどういうことだろう、という疑問がわき、『現代思想』(1981年1月号)に組まれた特集「戦争」に収載の『総動員』を読んでみた。敗戦をユンガーのように捉え直すことが新鮮であったこと、現在私たちが用いている〈総動員〉という用語は、どうやらユンガーあたりが創始者であるらしいことを知り、そこからユンガーへ取り組むことになった。ユンガーを読んでいくうちにこの作家が「戦争の人」だけでは済まされない人物であることはわかってきたが、しかしユンガーが「戦争の人」であるのは、ユンガーの名前をどこかで聞いたことがあるという人にとっても、私にとっても、今でも妥当するのだと思う。
 ドイツに「Jünger Jünger」という言葉がある。これはユンガーの作品に心酔するユンガー・ファンを指す表現で、これには青年期にユンガーの作品に震撼したルイス・ボルヘスや、ユンガーを「私たちの時代のもっとも偉大な詩人」と呼び公私にわたって交流をもった元フランス大統領ミッテランも含まれる。ユンガーに取り組み始めて以降、周囲から私自身もそうなってしまったのではないかと危惧の念を示される機会がたびたびあった。「鋼鉄の作家」というイメージや、ユンガーのモチーフの一つである「内的体験」の響きに、気を許せば「もっていかれそうに」なる危険はたしかにある。しかし私はユンガーの作品に漂う一種の貴族主義的雰囲気を好まないし、ひよわな精神と肉体の持ち主たちには、ユンガーを後追いすることはまず不可能であると思う。だが、若年層(私はとうにそこに属さないが)にとってだけでなく、20世紀に生まれ少なからず問題に突き当たっている人々にとって、ユンガーの好んだ甲虫の例えを借りるなら、それらの問題に直面するなら避けざるを得ない「痛み」へ対処する〈甲殻〉をユンガーから掴み取ることができるのでないかと考えている。

◆エルンスト・ユンガーはどう読まれているか

 エルンスト・ユンガーは1895年にドイツ・ハイデルベルクで生まれ、103歳の誕生日を間近に控えた1997年2月、ドイツ南西部の小さな町リートリンゲンで没した。第一世界大戦従軍時に付けたメモを元にした『鋼鉄の嵐の中で』(1920年)から、最晩年の日記シリーズ『Siebzig verweht』まで80年近く著作を世に問い続けた極めて長い活動期間をほこる作家である。「Siebzig verweht」は翻訳の難しいタイトルだが、「70年、風に吹かれて」というほどの意味である。ユンガーの思想や人生を適確に表したタイトルになっている。
 ユンガーの著作活動が長きにわたったこともあって、評者たちはこれまであらゆる言葉を駆使してこの作家を形容する必要に迫られてきた。ユンガーが紹介されるときにはこれらの形容を順番に連ねてゆき、その結果形容部分が長大になる(ならざるを得ない)という傾向がある。評者の立場によって、評価がいつ書かれたかによって、またユンガーのどの部分に注目するかによってさまざまな言葉が呼びだされる。それを全部拾い出していくのは困難である。ここではその例のひとつを紹介するにとどめたい。

ユンガーほど矛盾に充ちた多彩な顔をもつ作家も少ない。『衝動と意識、観照と行動、豊満と疑惑、陶酔と苦行、エラスムス的精神と英雄精神、博物館的世界と労働世界、身軽な旅と蔵書道楽の間の緊張』とはある学者のユンガー評だが、ナチ時代の行動についても『第三帝国の明白な案内人でありながら、ナチズムの明白な敵対者』でもあり、戦後の文壇での毀誉褒貶の賑やかさは、かの詩人ゴットフリート・ベンと双璧をなしている。(山本尤「ユンガーとクビーン」『ヘリオーポリス(下)』付録「月報53」、国書刊行会、1986年、1~3頁)

 ユンガーの作品や経歴から抽出された要素が一つ一つ並べられ、それぞれに個別の名前が付けられている。全部集めると、分裂を内包した、それでいてバランスの取れたユンガー像が浮かび上がるだろう。
 以下ユンガーの一端をごく短く紹介するにあたり、ユンガーに冠される形容で挙げたいのが「umstritten」と、「現代ドイツ文学最大の作家の一人」という評言である。
 ユンガーにはたびたび「umstritten」という形容詞が冠されてきた。「umstritten」とは、独和辞典では「評価の分かれる」とか「評価が定まらない」というほどの意味である。「毀誉褒貶相半ばする」といってもよい。あまり肯定的な印象は与えない。「現代ドイツ文学最大の作家の一人」は一見すると高い評価のようにも読める。この作家の意義を絶賛こそしていないものの、とにかく重要な作家であることはほのめかされている。そして初めに挙げた「umstritten」とこの「最大の作家」という評価には、矛盾があるようにも思われる。見方を変えるなら、この二つの評価によってユンガーを受容する側がバランスを取ろうとしているようにも思われるのだ。バランスが取れた評価というのはどういうことか。
 この二つの組み合せは、ユンガーが(現在における受容のされ方という意味においてであるが)決してゲーテではなく、また、「現代の」という点に注目すればカフカでも、激動のドイツ20世紀の指標としてのトーマス・マンでもない、ということを言っているのである。文学や思想を国(言語)ごとに分けて考えることが可能だとして、どの国(言語)の文学にも絶対的な「エース」がいる。「現代ドイツ文学最大の作家の一人」だというユンガーへの評価は、しかしそれに「umstritten」を付け加えることで、ユンガーをカフカやマンのような不動の地位を確立している作家に並べることを留保するのである。この評価が「最大の」となっていて、「最高の」ではない点が重要である。これは何を意味するか。一つの世紀、一時代を考察するとき、あるいは評価を下す際に私たちが中心的課題として取り上げ判断の基準とするのは、その世紀あるいは時代が孕む諸問題である。現代は、といって範囲が曖昧なら20世紀は、非常に多くの難問が私たち人類に課せられた時代であるというふうに私たちは理解している。20世紀、私たちは解決しなければならない多くの難問に直面した、というふうに。すなわち、ユンガーに付加されるこの「最大の」という形容詞は、ユンガーという作家に現代の諸問題がもっともよく凝縮されていることの示唆なのだと理解してよいと思う。もっとも問題的な作家であるが、万人にお勧めはできない、むしろそう理解すべきだろうか。というのは、「最大の作家の一人」でありながらさまざまな人が手に取れるようにはユンガーの著作は書店に並ばないし(これは日本だけでなくドイツでも現在までそうだ)、時代を代表するとされる他の作家のように学校の教科書に載ることもない。学校の教科書のように青少年向けではなくてもう少し対象を広く設定して専門性を高めた「文学史」においても「最大の作家」としてユンガーが扱われているのを目にすることはないだろう(日本の中学高校にあたるドイツのギムナジウムの教科書にユンガーの短文が掲載されていると聞いたことがある。それを私に教えてくれた人は「大丈夫なんですかね…。」と心配そうな顔をしていた。ギムナジウムの生徒のように多感な年頃の青少年たちが読んで大丈夫なのか、という危惧だと私は理解した)。繰り返すと、「最大の」という形容詞が言わんとすることは、ユンガーの小説やエッセイに高い文学的評価が与えられているということではなく、ユンガーの作品において私たちの現代が抱え込んでいる問題が大変よく凝縮されている(表面化している)というほどの意味なのである。
 だから、ユンガーに与えられてきたのは、決して高評価とは言えない評価の連続だったのである。ところが超のつく長生きのおかげもあってかユンガー(の作品)は生き残った。長生きしただけではなく、ほぼ全作家人生をとおしてユンガーが作品を発表し続けたことは大きい。日本に限っていえば、ユンガーの著作は戦後ドイツにおいてと同様タブーであった時期をどうやら過ぎたようにも思われる。著作の翻訳も、ここ15年ほどをかけて、順調とは言えないながら徐々に進んでいる。20年弱、ユンガーに取り組んできた身としては大変うれしい。
 ユンガーは簡単には否定されはしないが、手放しで礼賛され称揚されることも決してない。作家ユンガーには、この二面がどうしてもまとわりつく。注意すべきなのは、ユンガーの作品を大きく前期と後期に二つに分けるなら、ユンガーに対する否定的評価が、おもに前期の作品に向けられることである。先の引用部分(山本尤)をもう一度読んでみる。ユンガーが「第三帝国の明白な案内人」であると言わしめた著作にユンガーに否定的部分を見、そこへ、ユンガーが「ナチズムの明白な敵対者」と判断しうるような著作への肯定的評価を付け加える。そのためこの作家はどちらにも評価できるという「umstritten」な要素を持っているのだということになるだろうか。ことドイツの歴史的視点から見れば、「第三帝国の明白な案内人」と「ナチズムの明白な敵対者」は一人の作家のなかで語義矛盾をはらむように思われる。この矛盾は、現在まで続くドイツにとっての、そして私たちにとっても「最大の」問題であるだろう。それぞれの国の背景が前提にあるから、第三帝国はもちろん大日本帝国ではないし、ナチズムは天皇制ファシズムとは置き換えできないが、かりに一人の日本の思想家なり作家への評価としてこれらが両立するかを考えてみるとよい(日本にはこうした矛盾点の両立を可能にしたマルクス主義者の政治的転向という、ユンガーの場合とは異なる個別問題があり、ユンガーにおいてそのレベルでの転向があるかは大きなテーマだがここでは取り上げない)。
 ユンガーが、ではあまり読者を獲得しなかったのかというとまったくそうではない。自費出版として刊行された『鋼鉄の嵐の中で』は、大はつかなくてもベストセラーと言ってよいほど版を重ねたし、各国語に翻訳されて現在まで、青年期のボルヘスのような読者を獲得しつづけてきた(幸か不幸か日本においては戦前に一度翻訳されたきりである)。たとえばユンガーと同じくヴァイマル共和国期に活躍した作家の作品群が、現在において新たに外国語に翻訳され新しい読者をどのくらい獲得しているかを見ればユンガーの人気の根強さ、息の長さが測れるだろう。しかし先にも述べたように、新たに文庫版タイプの全集(2018年)が出た本国ドイツは別として、ユンガーの作品が気軽な形態で読めるようになるのは日本ではどうやらまだ先のことである(ひょっとするとずっと来ないかもしれない)。
 「ドイツ文学の法王」と呼ばれ、『フランクフルター・アルゲマイネ新聞』などの文芸欄で筆を振るったマルセル・ライヒ=ラニツキ(1920年生まれ、彼も前述のゲーテ賞を2002年に受けている)はかつてユンガーに関して、「エルンスト・ユンガーについてだったら私はなんにも言いたくありません。(そんな時間があるなら)その時間を他の作家のために使ってください」と苛立ちを隠さない。一定数の読者(ミッテラン元大統領をユンガー・ファンの筆頭に挙げてもよいだろう)をつねに獲得し、同時に大方からは無視され、ややもすれば嫌悪される存在でもあったユンガーが、しかし「最大の」という形容を付けられるのはどのような理由によるのか。ユンガーの著作に「現代の」「ドイツの」問題が数多く含まれているからに他ならないからではないか。そうであれば、ユンガーを「現代ドイツ文学最大の作家」と呼ぶことは、それが決して全肯定の評価ではないという点において的確なのである。
 ユンガーは、自分に批判が向けられることについて、「私を全体として読んでほしい」と繰り返し述べている。また、あるインタビューでは「私は矛盾しない」とも述べている。そしてユンガーを全体として捉えることの困難さは、たとえばある思想史家によって次のようにも指摘されている。「ある一つの時期のユンガー、彼の特定の本だけをとりだしてきて、これこそ「真のユンガー」であると絶対化されがちで、だれもユンガーを全体として問題にしていない。確かにユンガーをめぐる論争はさかんだが、ユンガーとの思想的討論はほとんどない。」(脇圭平)
 ある一時期だけを取り出すのではなく自分という作家の全体が把握されるべきだというユンガーの主張、またユンガー受容者に求められる態度は、1960年刊の『世界国家』というエッセイの論旨とも密接に関連している。ユンガーは、私たち人間がつねに高速度で進行している運動のさなかにあるという。運動、というのは私たち自身が動いていることでもあり、また私たちが身をひたしているその状況もまた動いているということである。いわば、静的ではないこの「運動」の概念には、ユンガーの思想(経歴)を評価するうえで、極めて重要な示唆が含まれているといえる。

◆ユンガーをとおして見る20世紀
1.戦争の世紀
 ここまで、エルンスト・ユンガーに対する評価について、ユンガーへの評価として「umstritten」と「現代ドイツ文学最大の」という二つを挙げて述べてきた。そしてそれらの評語が、ユンガーの作品に凝縮された20世紀の諸問題の反映であるのではないかということを考えてきた。ここからは、ではその諸問題にユンガーがどのように対峙してきたかを見てみよう。現代の諸問題、より狭くユンガーの活動した時期に限定するなら20世紀の諸問題は、ではユンガーにおいてどのように姿を現したのか。
 20世紀とは「戦争と革命の世紀」だといわれる。それは第一次世界大戦後のヨーロッパにおける「精神の危機」(P・ヴァレリー)のあとに訪れた時代であって、同じヴァレリーの言葉を借りれば「方法的制覇」(ヴァレリーにとっては「ドイツの方法」)によって「精神(エスプリ)」が駆逐されてしまう危機を迎えた時代なのである。この20世紀を言い表す二つの要素「戦争と革命」のうち、ユンガーの経歴からすればこの作家を語るにもっともふさわしいのは戦争である。〈戦争〉を主軸にして20世紀を通覧するなら、この世紀にはっきりと刻印されているのは、第一次世界大戦、大戦間期、第二次世界大戦、その後の東西冷戦(冷戦期に生じた局地戦はここに含める)である。20世紀はその意味で、私たちの身の回りの事物、私たちの手にした経験、そこから出てくる私たちの思惟が、二度の世界大戦そしてそれぞれの戦後に包括された世紀であるといえるだろう。ユンガーはかつて、彼の主要エッセイのひとつである『総動員』(1930年)において、ヘラクレイトスの言葉をもじり、「戦争はすべての事物の父である」と述べた。ユンガーにとって戦争は「学校」であり、みずからは戦争の子供であるとした。戦争は、すでに少年期のユンガーの関心を引きつけていたようである。必ずしも出来の良い生徒でなかったユンガーは、青年運動を経過し(ベンヤミンも青年期この運動に身をそめた)、やがて異郷への憧れを強くいだくようになる。第一次世界大戦勃発の1年前、ギムナジウムの生徒であったユンガーはアフリカを目指して家出をする。アルジェリアのフランス軍外人部隊への入隊が目的であった。この試みはしかし、ユンガーの行動を察知した父親が官憲に手を回し未遂に終わる。1914年8月、動員令が下るとすぐにユンガーは志願兵となり、戦地へ向かった。前線で数々の勲功を立てたユンガーは、1918年ドイツ敗戦の直前、最高勲章「プール・ル・メリット」を受けている。

2.第一次世界大戦―20世紀の「バビロン」へ―
 第一世界大戦後人員の削減された国防軍に残ったユンガーは、敗戦後の混乱において生じた義勇軍の鎮圧や歩兵操典の執筆に従事する。ほどなく1920年、自費出版で『鋼鉄の嵐のなかで』を出版。その後も第一作の即物的描写から一歩進め、戦場体験を文学的に昇華させた『内的体験としての戦闘』(1922年)を刊行。やがて1923年には国防軍を除隊した。翌年からはナポリ、ライプツィヒで生物学を専攻することとなる。ハンス・ドリーシュ、エルンスト・ヘッケルの系譜に連なり、幼少より昆虫好きであったユンガーの順調な経過にも思われたが、やがて1926年、学問をやめる。そして著述業に専念すべく、首都ベルリンへ移住するのである。
 若きユンガーにとって、ベルリンこそは、19世紀の余韻にひたるパリやロンドンを凌駕する、いわば20世紀の「バビロン」であった。この地でユンガーは旺盛な執筆活動を開始する。その多くがナショナリスティックな論を展開した雑誌や論集に寄稿し、自身でも雑誌を刊行する。この時期のユンガーの論調を一言で述べるなら、それは彼の主唱した「新ナショナリズム」という概念であらわされる。このナショナリズムはユンガーにとって、旧来型、すなわち復古主義的ドイツ・ナショナリズムとは一線を画すべきものであり、その担い手は前線から復員した兵士である。第一次世界大戦の物量戦で近代テクノロジーの洗礼を受けたかつての前線兵が19世紀的市民の旧体制すべてを駆逐する、というのが、このベルリンでの三年間ほどにユンガーが書いた140編を超す政治評論の主眼である。これらの政治評論をもって、ユンガーは青年ナショナリストの「精神的指導者」と目された。
 1929年ウォール街株式市場大暴落をきっかけにした経済恐慌を背景として、以前から勢力を伸張しつつあったナチ党がユンガーに目を付けたのはこの頃である。『総動員』を収録した戦闘的論文集『戦争と戦士』の主幹として、また『労働者』の著者として名を高めたユンガーへ、ヒトラーおよびゲッベルスらからの接近が試みられる。しかしユンガーがナチ党からの国会議員議席の提案を断ったこと、1933年に改組された文学アカデミーからの招聘を固辞したことを背景に、両者は緊張関係に入る。この年の1月に政権を獲得したナチ党の指示によって家宅捜索を受けたユンガーは、ほどなくベルリンを去る。以後、ゲスターポの監視下に入ったユンガーのこの時期はこの作家が寡黙であった時期と言えるだろう。ユンガーの朋友エルンスト・ニーキシュが主宰しユンガーもたびたび寄稿していた雑誌『Widerstand』が発禁処分を受け、ユンガー自身も二度目の家宅捜索を受ける。ベルリンを去ったあとのユンガーは、『苦痛について』、『冒険心〔第二版〕』などの重要な仕事を残しつつも、寡作の時期を過ごす。ハンナ・アーレントは、ハイデガーにあてた書簡でユンガーに触れ、自分がユンガーの作品で評価するのは『アフリカ的遊戯』だけだと告白しているが、この作品が書かれたのが1936年である。
 ユンガーは、「労働者Arbeiter」を19世紀的階級概念の労働者とは区別して使っている。ユンガーの「労働者」は身分や階級的区分によるのではなく、「労働者」とは新しい人間の形態(ゲシュタルト)、新たな種族(Rasse)として提唱される(従来のArbeiterとユンガーのArbeiterの区別を明確にするため、日本ではこれまで〈労働人〉という訳語も用いられた)。ユンガーの「労働者」は階級闘争の担い手ではない。この「労働者」たり得るのは、第一次世界大戦で技術の洗礼を受けた前線兵にほかならない。

3.第二次世界大戦
 冒頭に挙げたユンガーに付される二つの評価のうち、「umstritten」に大きく関わるのがこの時期(以降)である。つまり、ユンガーに対する肯定的な評価を許す作品が生まれる時期である。ナチ体制に与する、あるいはこの体制を許容することを是としない文学や思想に残された方策は、内的にのみ自身の拠って立つ根拠を確保するか、書くことをやめてしまうかであった。小説『大理石の断崖の上で』を刊行した1939年8月ユンガーは、第一次世界大戦とは異なり今度は召集を受けて大尉として第二次世界大戦の西部戦線に従軍した。『大理石の断崖の上で』には、兄エルンストと弟のフリードリヒ=ゲオルク・ユンガーを想起させる兄弟の、ナチ体制を思わせる「森の頭領」との闘争が描かれる。この内容から、ユンガーのこの小説を「抵抗文学」の一編として算入する議論もある。具体的に反体制活動を組織したり、みずから運動に身を投じたりは決してしなかったユンガーだが、この時期のユンガーが「国内亡命」や「抵抗文学」に数えられるのは、この作品に因るところが大きい(ただしユンガー自身は自分を国内亡命者に数えることに反対している)。第二次世界大戦時パリ赴任時のユンガーは、ドイツ占領下パリの国防軍参謀本部において、手紙の検閲、ナチ党と国防軍の間の軋轢を記録に残すという密命を受けた他には、比較的穏やかなパリ生活を過ごしている。膨大な量の読書、パリに残っていた対独協力文学者(いわゆるコラボラトゥール)たちとの交流が日々の慣わしであった。しかし刊行されたかたちでは大きな作品を残すことはなく、1942年にはドイツ国内での出版禁止措置を受けることとなる。ドイツが連合軍に敗れて危険作家のブラックリスト入りしたユンガーは、占領軍から出版禁止措置を受けた。次に刊行される重要著作は、1949年の未来小説『ヘリオーポリス』と、従軍中の1941年からドイツ敗戦間際の1945年4月にかけて書いた日記をまとめた『放射』を待たねばならない(1943年に『ミュルドゥン、ノルウェーからの手紙』が出ているがこれはノルウェーで出版)。第二次世界大戦従軍中にユンガーが書いたもので人目に触れた数少ない作物のひとつが『平和』である。これは公に刊行されたのではなく、ドイツ国防軍内の反ナチ党将校の間でコピーがパンフレットのようにして秘密裏に回し読みされた。正式に刊行されたのは1945年、ドイツ敗戦後のことである。

4.第二次世界大戦後ー占領下からの復活―
 ドイツで最も高い尖塔をもつ大聖堂のある都市ウルム(Ulm、アインシュタインの生まれた街)から小さな電車とマイクロバスを乗り継いでおよそ1時間半、田園地帯の真ん中に位置する小村Wilflingen(人口400人ほど)にエルンスト・ユンガーの住居はあった。「あった」というのは、ユンガー没後、1999年から、かつてのユンガーの住まいは「ユンガー兄弟財団」の管理下にあり、現在では「ユンガー・ハウス」として一種の文学資料館になっているからだ。
 バーデン=ヴュルテンベルク州内のSchwarzwald、いわゆる「黒い森」にも近いこの地は、かつて、シュタウフェンベルク伯爵家の領地であった。このシュタウフェンベルク家は、ヒトラー暗殺が企てられた1944年7月20日事件の首謀者の一人シュタウフェンベルク大佐の家系とは遠縁にあたる。第二次世界大戦でのドイツ敗戦後、連合軍(敗戦直後に住んだのはイギリスの占領地帯であった)によって著作の公刊を禁じられたユンガーは1948年からフランス占領地帯に移住し、ほどなくここヴィルフリンゲンに住居を構えたのである。移り住んだ当初、シュタウフェンベルク家から村の中心に立つシュタウフェンベルク城(城といってもものすごく大きな館という佇まいである)を提供されたが、この大きすぎる館をユンガーは少々持てあましたようだ。みずから退去を申し出て、ユンガーは向かいにある旧森林監督官事務所に引っ越した。もう少し南へ下がるとすぐにボーデン湖に出られるこの地はスイス、フランス国境からもそう遠い距離にはなく、フランス軍占領地域であったので、フランス語が出来、フランスの文人らとのコネクションが強かったユンガーの希望もあったろう(これはしばしば繰り返されることであるが、ユンガーはフランスでの人気が大変高い。彼の著作は、その多くがJulien Hervierら優れた翻訳者によってフランス語に翻訳されているし、フランス語圏でのユンガー研究の層の厚さは、母国ドイツに次ぐ。2012年には、哲学・思想関係の版元として知られるベルリンのMatthes & Seitz社から『エルンスト・ユンガーのフランス』という書物も出ている)。
 ユンガーへの出版禁止措置は、彼がヴィルフリンゲンに移り住んだ直後、占領が終了した1949年に解除される。出版禁止措置の解けたユンガーは、102歳で没するまでこの小村でほぼ半世紀にわたって、毎日午後の昆虫採集を日課としながら執筆活動を続けることになる。午前は日記や手紙の執筆(ユンガーは手紙魔でもあった)、午後にはおよそ2時間近くをかけ昆虫採集を兼ねて森へ散歩に出かけた。ヘルムート・コール元ドイツ首相や、ミッテラン大統領ら政治家だけでなく、青年期にユンガーの初期作品から大きな影響を受けた前述のボルヘスら文学者らの訪問をユンガーがたびたび受けたのはこの地である。作品の中心はもっぱら日記と旅行記にうつり、エッセイも、以前の政治論的要素を含むものから文明論的志向の強いものに移行する。ユンガーに対する評価が「umstritten」だけではなく「現代ドイツ文学最大の作家の一人」となるのは、このヴィルフリンゲンでの戦後のユンガーの著作活動が大きく寄与している。ユンガーに授与された、数々の自治体からの勲章ラッシュもこの地に暮らしていた間の出来事であり、1978年には全集の刊行が開始された(~83年)。

5.東西冷戦期ー世界内戦へ―
 戦後とは、東西冷戦期である。ユンガーにとって戦後とは、戦争が終わったのではなく継続している状態をいう。ユンガーは冷戦期の世界構造について『世界国家』(1960年)で説いている。このエッセイは、『われわれは今どこに立っているのか(Wo stehen wir heute?)』というタイトルで編まれたエッセイ集に寄稿されたものである。執筆陣には、ユンガーと同じくゲーテ賞を受けたシュヴァイツァー、ヤスパース、ユダヤ人思想家マルティン・ブーバーらが並ぶ。ユンガーは「立つ、立っている(stehen)」という事態に対して、私たち自身、そして私たちの環境は常に動いているという考察から出発する。stehenから派生したStand(静止状態)→Staat(国家)という連想から冷戦期の状況について述べている。
 現在世界は東と西の二局に分裂しているが、これは本来一個の鋳型からなる世界が見かけ上そう見えているのにすぎない。世界が二つに分裂しているように見える冷戦状態とは20世紀をつらぬいて持続してきた「世界内戦」の表面的なあらわれに過ぎない。社会が国家を構成するのではなく国家が諸社会、諸民族を包み込んでいく過程はいまやその終局地点に近づいている。全地球的、惑星的なスケジュールで進むこの運動過程は不可逆的であり、勢力の均衡を図ろうとする世界の二極化(東西冷戦)や三極化(ユンガーの念頭にはオーウェル『1984』もあると思われる)の試みは、すでに一極状態としての世界国家(Weltstaat)、さらにいえば世界帝国(Weltreich)に包み込まれてしまうことになるのだろう。この趨勢は決してネガティブな状態なのではない。領域限定的な従来の国家(国民国家もこれに含まれる)を超克するものとして、世界国家こそは「人類」全体の幸福、全世界的・惑星レベルでの平和のための基盤なのである。こうしたユンガーの考えは、すでに1950年、ハイデガー60歳記念論文集に寄稿した「線を越えて」にその萌芽が見られた。世界は内的に分裂し対立しているのではなく、ひとつの枠の内側で内戦状態にある。この世界全部が内戦状態にあることで世界はようやく世界国家たり得る。19世紀までの諸戦争とはすっかり形を変えてしまった第一次世界大戦以降の戦争は、内戦なのである。ユンガーはすでにヴァイマル共和国期、カール・シュミットにあてた書簡の中で、第一次世界大戦後の自分たちは、世界内戦のさなかに位置しているのだと述べたことがある。『世界国家』でのユンガーの論は、さらにその論旨を突き詰めたものである。そこで生じるのは世界の戦争化である。19世紀まで「諸国民の戦争」であった戦争という出来事は、現代にいたってそれぞれの国民の領域を凌駕してしまう。ユンガーが1920年代に掲げた「新ナショナリズム」は挫折した。当時ドイツで革命を標榜した一派が達成したことといえば、あくまで19世紀市民的政治の延長にすぎなかった。一方で、社会主義を標榜し、冷戦構造の担い手となった側は、結局は二極化しているにすぎない世界を構成しているのみである。戦争が真に世界化することによって、世界は内戦状態に、本当の意味で世界はひとつとなるのである。
 ユンガーがシュミットにあてて書いた、世界内戦の真っ只中にいるという感触は、その後も冷戦の終焉まで変わることがなかった。第一次世界大戦から出発し、そのほぼ作家生活の全期間といってよい年月をひとつの世界戦争の中に生きたエルンスト・ユンガー。この作家は文字通り「戦争の人」だったのであり、私たちの20世紀は、つねに彼の作品とともに、世界内戦の時代だったのだ。ユンガーを評するのに、もう一つ「地震計」という言葉がある。その意味は、ユンガーの作品に時代の揺れが克明に記録されているということである。この作家を読むことは、戦争によって私たちの時代がどれだけ揺れたのか、よく知ることに役立つのにちがいない。

【参考文献(現在入手しやすいユンガーの著作)】
1.『ユンガー政治評論集』(川合全弘訳、月曜社、2016年)
2.『ガラスの蜂』(阿部重夫・谷本愼介訳、田畑書店、2019年)
3.『エウメスヴィルーあるアナークの手記ー』(田尻三千夫訳、月曜社、2020年)
4.『ユンガー゠シュミット往復書簡1930–1983』(山本尤訳、法政大学出版局、2005年)〔カール・シュミットとの共著〕