見出し画像

拝啓十五の君へ、十五年後の僕は今

「ぼきっ、バキッ、ぶちぶちぶち」。

14歳の冬、階段の最上段から全速力で転がり落ちた僕の左足は、粉々に真っ二つに。アキレス腱や神経も損傷。これが、波瀾万丈な僕の人生の幕開けとなった。



ちょっとお喋りで陽気な中学生から、谷底へ転がり落ちるように人生がガラリと変わった。救急車に乗って、いくつかの病院をたらい回しにされ、ようやく決まった病院に救急搬送された。レントゲンを撮影したあと「粉砕骨折」と主治医から診断された僕は、真っ暗な病室で泣き崩れた。僕は、昔から野球をやっていたので、それができなくなるという恐怖にかられた。

翌々日には、手術をした。

未成年である僕は、全身麻酔ではなく下半身麻酔で、一般的なプレートを入れる治療法ではなく、外から、お化けのフランケンシュタインの様にネジを刺して治す「創外固定」という治療法だった。

手術中の下半身は、正座をしたあとのように痺れ続けているのに上半身はバッチリ目覚めているから、照明にメスで切り開かれ血だらけに写る左足を直視した。真っ赤に染まった脚。僕は生きているんだと思った。


手術をした翌々日から、リハビリが始まった。数週間後には立ち上がってみたが、貧血のように力が入らず立ち上がることすらできなかった。

左足が全く動かないので車椅子生活。美味しくない病院食、周囲は年配ばかり。好奇心旺盛な14歳の僕には、何もかもが退屈だった。

左足の骨は真っ直ぐくっつかなかったので、そんなことあるのかと思ったが、「再骨折」させた。大人3人がかりで押さえつけられて、骨をボギボキと折られたときは、激痛と恐怖心からレントゲン室で「あぁーーーーー!」と叫んだ。涙を出しながら、ブルブルと震えた。再骨折も虚しく、未だに僕の左足は曲がっている。

リハビリは、約3ヶ月近く続いた。松葉杖をついて、ようやく退院し、学校に戻った。
中学校3年生の春だった。

3ヶ月ぶりの学校では、勉強についていくことができなかった。

タイミング悪く、クラスでイジメが大流行していた。ゲーム感覚で、数週間毎にいじめの対象が移り変わっていた。

松葉杖をついてうまく歩くことのできない僕は、いじめの対象になるだろうと予測した。思ったよりも早く、その日はやってきた。

いつものように学校に行って「おはよう」と友達に声をかけたが、無視をされた。
クスクスと笑われ、自分の机の上には彫刻刀で「死ね」と彫られた上から、マジックで黒く塗りつぶされていた。恥ずかしくなって、その文字を消すようにバッグを置いた。授業が始まると、後ろの席の何人かから、ブレザーに、トイレの芳香剤とチョークを使って、「死ね」「クズ」などという言葉を書かれては、笑われた。

給食のシチューの中にチョークや虫が入っていたこともあった。昼休みが終わると学生バックが牛乳まみれになっていくつかの教科書が使えなくなった。帰り際には、靴がなくなって裸足で帰った。数日後に、靴はどぶからみつかった。上履きには、画鋲が入っていて足から血が出たことや、誕生日ケーキのようにシェービングクリームが山盛りになっていることもあった。それまで漫画でしか見たことがない世界を経験した。そのとき、思いっきり怒ればよかったのかもしれないが、更にいじめられるのが怖くて、何も言うことが出来なかった。

いじめを受けているとき、不思議と大きな声が出せなくなる。ヘルプが出せなくなるのだ。かっこわるい、恥ずかしいという気持ちが上回り、さらには、周りが全て敵に見える。「1人で抱え込まずに、誰かに相談したらいい」とか気安く言うけど、あんなの無理だ。恥ずかしくて、怖くて、誰にも言えなくなる。

心が「ぎゅー」と締め付けられて、心臓が止まりそうなぐらい苦しくなる。

僕の場合、そんな状態が約1ヶ月は続いた。負けたくなかったから、学校には通った。毎日のようにリハビリがあったので、部活には通えず、家に帰った。毎日毎日続いたいじめの傷は30歳になった今でも深く心に残っている。

ちょうどこの時期は、卒業アルバムを撮影する最中だったから、僕はクラスの人たちから明らかに避けられている写真がアルバムに残っている。
あるとき、この頃の写真は全部燃やした。

松葉杖が外れて、部活に顔を出せるようになったタイミングで、急にいじめの標的が変わった。僕は情けないながらも、またいじめられるのが怖くて、いじめる側にもまわってしまった。途中で、なんども部活動にも顔を出したが、僕の野球道具は部室の端っこに寄せられ(当たり前だけど)、夏の最後の大会に向けて、団結力を強めるチームに僕の居場所はなかった。

心の隙間を埋めるために、悪さをしている連中とつるむようになった。なにより、自分を悪く見せることで、二度といじめられることはなくなるんじゃないかかと考えたのが一番の理由だった。次第に、学校もサボるようになったり、悪い先輩たちと夜な夜な徘徊をしたり、カラオケに行ったり、他校の生徒と喧嘩をしたり、学校のガラスを割ったり、鉄アレイで殴ったり殴られたり、教師と殴り合ったり、飲酒も万引きもして、煙草も吸って、尾崎豊のように友人が盗んだバイクで走ったこともあった。暴走族に、勧誘されたこともある。

15の夜のような、クローズゼロのような世界を生きてた。

いつしか学校の先生からは「クズ」と呼ばれるようになった。

確かに、あの頃の僕はクズだった。
ある日、大喧嘩を起こした。

この喧嘩で何人かが骨折をしたし、僕も歯がかけた。集団リンチとみなされ、僕も、そのグループにいたので警察沙汰になった。警察に両親が来たときに第一声が「あんたは何も悪くない、わたしたちが悪かった。ごめんな。」と泣きながら謝ってくれたが、親が悪いわけない。僕はようやく我に返り、悪い連中と手を引くことにしたのだった。

だけど、夏のセミの抜け殻の様にに引きこもりがちになった。


そして、15歳のある日、僕は自殺を決意して8階建てのスーパーの屋上に、何故か家庭用の包丁を持って上った。ぼーーーっと半日はいたように思うが、死ぬことが怖く、死ねなかった。
遠くをみると母が自転車で僕を全速力で探している姿が見えた。涙が零れ落ちて、「生きたい」と思った。その日の夕方、無言で家に帰ると母は「心配したのよ」と無言で抱きしめてくれた。あのとき作ってくれたカレーは今でも忘れられない。


学校にはやる気もなく、休みがちになりながらも通い、通知表は、1と2のオンパレード。
以前のnoteにも書いたけれど、そんな母は22歳で突然、病死した。アップダウンの激しい人生だ。振り返るほどそう思う。    

15歳で死のうとした僕は、今日で30歳を迎えた。

ずっと、この話は吐き出してみたかったが、いい話でもないし、不幸自慢みたいで封印していた。でも、倍も生きたし、頑張ったし、もういいかな、と思って。思い切って書いてみた。




僕は中学生の頃、朝日新聞のコラム「いじめられている君へ」でたくさん生きる勇気をもらったから。だけど僕は、文字にするよりも話した方が得意なので、しゃべるともっともっと言葉が溢れ出てくるとも思う。

生きていたら、いいこともある。どこかのタイミングで、助けてくれる人が現れる。前を向いてさえいれば、目の前に必ず現れた。

何かを抑圧して、我慢をして生きるんじゃなくて、やりたいことをやる。今は、線が見えなくてもすべての点と点は繋がっていたと思えるときがくる。

今、苦しい、消えてしまいたいと思っている15歳の自分がいたら、「大丈夫だ」と伝えたい。生きていたらいいから、何もやらなくていい、と言いたい。戦ってもいいし、逃げてもいいんだと言いたい。だから、自ら命を落とさなくても大丈夫だ。大丈夫。

僕は、中学時代、まともに学校に通わなかったなけど、これでよかったと断言できる。行っていたらまた別の人生になっていたのだろうけど、この人生でよかった。目の前から次々と現れる禅問答のような答えがない、問いを解き続けていたら、すべてに答えがないことに気づいた。夢や目標なんて、必要ない。行きたい方向だけは重要で、あとは今の積み重ねでなんとかなる。

もちろん、相手が誰であろうと物怖じせずにストレートな言葉を伝えてしまうので、軋轢を生むという欠点もある。だけど、それも含めて自分だ。
そう思えるようになった。

絶望を味わったのに、僕は旅に出会って、世界一周もして、アフリカで教師になった。そして、20代最後に、会社を立ち上げた。僕も這い上がり途中だけど、絶望から這い上がってくることはできる。

過去の苦い原体験がなければ、難民支援も、野宿者の支援も、料理のイベントも、僕は興味すら持たなかったはずだ。目の前の人が必要としていたら、見返りを求めずに与えること。そして、僕の命は、僕の命ではなく「生かされている」という感覚も覚えなかっただろう。

もしかしたらスーツを着こなし、ネクタイをして、東京のど真ん中で大手企業なんかで働いていた人生もあったかもしれない。平均点を求めるより、はみ出してしまう人の方が、いい意味で目立つ。


消費社会の中でハムスターのように働き続け愚痴を漏らす人間を見ると、義務教育をまともに受けなくてよかったと思う。

こんな僕でも、アフリカで先生をして、100カ国以上旅をして、会社を立ち上げてることができた。やりたいと思ったら、なんでもできる。この世界は、思っている以上に優しかった。

だから学校に行きたくない、行けなくても大丈夫だ。あなたの世界はそこだけじゃない。むしろ、違和感を感じてたら行かなくてもいい。今の時代、オンラインでも繋がれる。

世界は、前よりも、もっと近くなった。

あなたがそうしたいなら、そうしたらいい、その道を進んだらいい。そんな時代になっているはずだ。嫌なことからは逃げてもいい、好きなことをやろう。

10代の頃は、崖の端っこに立たされているような絶望感を感じていたけれど、それを反動に力に変えることができた。今は真っ暗でも、生きていれば明るい兆しが見えた。次は、暗闇を感じている若い世代に光を当てる番だ。自分ならできる。

今では、僕はネタだらけのこの人生でよかったなと思っている。

15歳で「死のう」と決めた僕は、30歳まで生きることができた。周りの人たちのお陰でここまでこれた。

出会ってくれたすべての人に感謝しかない。

出会ってくれた人の中に、年上の大切なパートナーがいる。そのパートナーは女の子と暮らしている。女の子は思春期のようで、「パパじゃない」僕になんだかんだ怒ったり、感情をぶつけたりしてくるのだけど、あの時代を経てるから、なにかに反抗したい気持ちが痛いほどわかったりする。好かれようが嫌われようが、身近な人の想いを受け止めたいと思う。


何故だか、30歳の誕生日という節目だし過去を振り返りたくなったのでnoteに綴ったのだけど。次は何歳のときに振り返りたいと思うのだろうか。30代で、必ず本は出版する。今まで馬鹿にしてきたクソッタレを、大嫌いだった世の中を見返したいという反骨精神がずっとある。

自分の人生が、誰かにとっての勇気に変わる、そう信じている。これからの人生、あっと驚くようなことをし続けてやる。

2021年 2月14日
株式会社 bona
代表 奥 祐斉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?