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【体験談】羽田空港事故当時の様子

こんにちは。
心地よい生き方・働き方を探って右往左往する日々を綴っているアラサーサラリーマン女子・冷凍みかんです。

私は、1月2日、JAL516便に乗っていました。
私を含め家族4人で、札幌にスキー旅行へ行った帰りでした。
17時47分、羽田空港で海上保安庁の航空機と衝突した爆発事故。
機長さんやCAさんの的確な判断・ご対応のおかげで、無事に、
ケガや体調不良もなく、大火から逃げ切ることができました。

緊急避難後、次第に勢いを増す炎

あんなに燃え盛る炎を、初めて見た。
スライダーで緊急脱出なんて、初めて体験した。
しばらくは恐怖で胸のざわつきが収まらなかったけれど、今は少しずつ気持ちが落ち着いてきたので、あの時の体験で感じたことを、忘れないうちに書き記したいと思います。

着陸した瞬間、機体が何回か不自然にはずみ、大きく揺れた。
同時にボンッと大きな爆発音が聞こえた。
窓の外を見ると羽のエンジン部にはオレンジ色の炎。

着陸した瞬間には既に、エンジンがぼろぼろになっていた


着陸後1分間くらい滑走路を走行しているうちに客室内も煙くさくなっていった。
私は進行方向に向かって左前方のエリア、10CというClass Jの席(ファーストクラスと普通席の間の、少し幅広な席)に座っていた。

私が座っていた席は左前方、10C


左の羽よりも右の羽のほうが大きく燃えていて、炎も大きく、窓により迫っていた。
機内中央の席は酸素マスクが降ってきていたけど、左側の私の席やその前後の席は酸素マスクは降ってきていなかった。
「エンジンが燃えてる!」と誰かが叫んだ。

はじめは何が何だか分からなかったけど、すごく揺れるので、とりあえず姿勢を低めた。
座席で充電していたスマホとケーブル、座席ポケットにしまっていた本を、足元に置いていたカバンに回収した。

右側の羽のほうが炎が強かったのもあって、右座席の人2, 3名くらいは「炎がここまで来てる!早く開けろ!早く開けろ!どうして出してくれないんだ!」と声を荒げていた。
それと、上にしまっている荷物を取り出そうとする人が1, 2名くらいいたけど、安全のためにCAさんにすぐ止められていた。
そのほかの乗客は、冷静。(というか、少なくとも私は、何が起きているのか分からなくて動けなかった。)
後からニュースを見たところ、機体の後ろ側のほうが先に轟轟と燃えて機内にも黒煙や熱気が立ち込めていたので、私たち家族が座っていた前方、Class Jのあたりは比較的安全なゾーンだったのだろうと思う。後部にいた方々はもっとパニックになっていたかもしれない。

CAさんたちは「機長!機長!」と機内電話で叫ぶも、機長と連絡が取れない様子。同時に「頭を下げて!立たないで!荷物を取り出さないで!」「大丈夫!大丈夫!落ち着いて!」とものすごい勢いで叫び続けていた。
こんな時間が体感1~3分くらい続いただろうか(正確な時間は分からない)。
混乱状態なので、実際より長く感じるし、炎がどんどん近づいてきて、煙臭さも増すので、焦る。「早く出せ!何やってるんだ!」と叫んで立とうとする方が数名。
そのうちに機体が静止し、一番左前の緊急脱出口が開き(後からニュースで知った情報では8つある緊急脱出口のうち3つが開けられたということ。)、CAさんたちが乗客を前からも後ろからも「早く逃げて!」と脱出口に誘導する。
数名、上の棚を開けて荷物を取り出そうとするも、CAさんや他の乗客が「荷物を出さないで!」と制し、その方々は荷物取り出しをあきらめて誘導に従った。少なくとも前方エリアでは、脱出口に向けて機内を移動するときに叫ぶ乗客はいなかった気がする。
私は足元に置いていた手荷物のリュック1つだけお腹に抱きかかえて、家族と一緒に逃げた。
上の棚に置いて行ったものは、ダウンのコートとマフラー、機内持ち込みしたスキーウェア類一式、北海道で買ったお土産。

スライダーはとてもなだらかな傾斜で、そんなに長くないけど、滑っていて途中で体が止まった。
最後はおしりと足でよじよじと動いて降りた。
着地点の左右には男性(一般乗客?)が、続々と着地する乗客をアシストしてくれていた。
着地してから、家族と一緒に走った。

胴体に火が回る前に避難開始

私たち家族は前方に座っていたので、乗客367名の中でも早めに避難したほうだったと思う。
遠くから機体を眺めていた(というか、唖然と立ち尽くしていた)けど、後方の脱出口はしばらくたってから開放され、後ろのほうの乗客は前方に比べて避難しはじめるが少し遅かった。
何より、スライダーがかなり急で、こわいなと思った。
後方のほうが高い状態、前傾状態で着陸したため、地面との高低差があったから。

後方のスライダーのほうが傾斜が急

この時点では、まだ機内には火は及んでいなくて、両翼と後ろの機体尾部分が轟轟と燃えていた。
避難した滑走路上では、CAさんが「人数確認をするので10人で手をつないで輪になって!10人揃ったら座って!」と叫ぶ。
周りの人たちと10人で集まろうとするも、各々、家族に電話しようと、静かな離れた場所にふらふらと歩きだしていってしまう人、写真や動画を撮ろうと(遠くにいる中でも)飛行機のほうへ少し近寄って歩き出す人、「足を痛めたから座れない」と言って立っている人などなどがいて、なかなか10人で静かに座ることができない。

コートを機内に置いてきていたので、寒い。
こわさもあって、体がガクガクブルブル震える。
「雨が降ってなくてよかったね。札幌じゃなくて、羽田だからまだ暖かいほうだよね。」と家族と身を寄せ合った。
消防車は1台。途中でもう1台やってきたかな。機体後方に放水し続けていた。
消火よりも、燃え盛る火が勢いを増すほうが圧倒的に早すぎて、全然消えない。

なんとなく輪がいくつかできて、CAさんがグループごとに1から順番をふった。私のグループは「グループ1」。
そんな時に、機体から「ボンッ」と大きな音がして、煙臭さが増す。機体からはものすごい黒煙が昇っている。火が大きくなった。
できたばかりの輪を崩して、みんな一目散に、もっと遠くへ逃げる。
「人数確認します!先ほどのグループで再度輪になってください!10人できたら座ってください!写真は撮らないで!」と、カスカスの声で叫ぶCAさん。

薄着の人、身一つで逃げた人もたくさんいる。
「もっと暖かいところで点呼すればいいじゃないか」「10人で輪になって座るのは難しい。整列したほうがいいんじゃないか」「早くバスは来ないのか」と言う乗客たち。
確かに寒かったし、外で何もできずに待つ時間が長かった。
隣にシャツ一枚、手ぶらで立っていた人は、海外から一時帰国していて翌日また海外に戻る予定だったと言う。けど、荷物はもとより、パスポートも燃えてしまったからどうしよう、と。

父は避難時にスマホを落としたことを嘆いていた。
兄は手荷物を上の棚にしまっていたから財布(現金、クレカ、身分証類、会社の定期券)が燃えたことを悔やんでいた。
母は北海道でたくさん買ったお土産が燃えたことを悲しんでいた。

目の前で地面にひれ伏して、泣き叫んでいる女性が忘れられない。
「機内に猫がいる」
いたたまれなかった。
ワンちゃん、猫ちゃんも大切な、かけがえのない家族だもんね。
遠くから燃え盛る炎を見て、胸が苦しくなる。
なんの声もかけられなかった。

消防隊の方による消火活動(18時02分)

避難してから15分後くらい、全員脱出完了したかな?という頃に、機長さんがやってきて、CAさんたちと「全員脱出できた」ことを確認しあい、無線で本部?に報告していた。
機長さんは煙が立ち上る機体のほうに再度走り寄って前方スライダー、後方スライダーを確認。車いすのお客さん(脱出時は車いすはもちろんない)に肩を貸して、移動のお手伝いをしていた。
その後も機長さんは乗客たちの輪をめぐり、乗客の背中に手をまわしてポンポンと「みなさん、ケガや体調は大丈夫ですか。」と必死に励ましてくれた。
後から兄が言っていたのは、背中に手をまわしてくれた機長さんの手が震えていた、と。機長さん、半袖シャツだった。
私はコートがないだけで寒い寒いと言っていたけど、ニットは着ていたので、申し訳なく思った。
機長さんは寒さや、何よりも、とびきりの恐怖と責任を感じている中、必死で乗客を励ましてくれていた。

待っている間にネットニュースが続々と上がって、能登半島へ援助物資を運ぶ海保機と衝突したことを知る。
そうか。機体より後方でものすごい勢いで轟轟と燃えている大きな炎が、それか。消防車はそっちに先にたくさん行っているから、JAL機には中々台数が来ないのか。理解。

父が、機長さんに、ネットニュースで知った「海保機と衝突」という話をした。その時、機長さんは「そうなんですか。私も今は事態がわからないのですが、少なくとも言えることは、着陸したときに何かにぶつかって、炎と同時に小型航空機のようなものが見えた、ということだけです」と言っていた。そしてまた他の乗客の輪へ励ましに行っていた。


滑走路で立ったまま何もできずに待ちぼうけ。
燃え盛る機体を遠目で見るか、ネットニュースを見るかしかできない。
ニュースが続々と更新され、海保機の乗員6名のうち5名が亡くなったと知り、言葉が出ない。
年始から、人助けのために働いていた海保の方々が…。
それに比べたら、私たちは、たとえ貴重品は燃えても命があることが、どんなに恵まれていることか。そう思った。

着陸45分後くらいに遠目から見た機体は、すでに両羽はかなり燃えていて、胴体の外壁は意外にもそのまま、胴体内部が火の海になって客席窓が全部オレンジ色になっていた。
客席後方がかなり燃えていたのは、機体が前傾だったため。火は上に燃えていくから。
当初前方の客席までは燃えていなかったから、「私たちの手荷物、何とか助かるかな…」とか淡い期待を抱いたけど、そんな通りには行かなかった。
火の手は徐々に機体前方へ広がり…

消防車が2台?に増員されるも、火は勢いを増す(18時28分)

「ボンッ!」と大きな打ち上げ花火のような音が2,3回繰り返されて、胴体の屋根が全部崩壊。胴体内で燃えていた火柱も、屋根がなくなって酸素に触れまくって、炎がものすごく勢いを増す。

18時35分

すでに、みんな、荷物は全て助からないと割り切っていた。
次第にバスが何台かやってきて、第3ターミナル国際線搭乗口へ移動。
「小さなお子さんやご高齢の方、お体の悪い方を優先してください」とCAさん。

バス複数台が到着。遠くには燃え続ける機体と消防車。(18時46分)

第3ターミナル国際線搭乗口に入り、番号札と、連絡先記入用紙をもらう。
カイロも配布された。
用紙に書いたり、トイレに行ったり、スマホを充電したりして、30分くらいしてから、お水や機内食スナックのあられをもらう。
乗員以外の方を含め、たくさんのJALスタッフが声をかけてくれる。
「この中にお医者様はいらっしゃいますか!」という声も聞こえた。
次第に警察や消防、医療スタッフの方々が各地からやってきた。
1時間以上待ってから、番号札の番号ごとに30名ずつギャラクシーホール(第1ターミナル内のホール)へ移動すると案内を受ける。
カメラを構える多数のメディアを警察が制しながら誘導され、空港スタッフ専用通路や緊急避難通路も通りながらギャラクシーホールへ移動。10分弱歩いたかな。
スタッフさんたちは複数人で同時通話&チャット可能なタブレット端末でやり取りをしていた。私たちはギャラクシーホールへの移動第一陣だったので、付いていたスタッフさんは後続陣用にホールへの導線状況を逐次報告していた。

そうか。
空港を封鎖して導線を確保するためにいろいろと連携していたから、避難後滑走路からここに来るまでの待ち時間が長かったのか。と理解した。
移動の途中、メディアに何回か「当時の様子を教えてください」と声をかけられたけど、疲れ切って、そんな気は起きなかった。

ホール内では、多くのスタッフさんが、スマホ充電用にとコンセントをたくさん設置してくれたり、お水や機内食のおにぎりや冷凍クリームパン、ユニクロのフリースなどを配布してくれた。

ホールで支給された食料


1組ずつ、帰る場所はあるか、どうやって帰るかなどをヒアリングしていた。
そのままホールで1時間以上待ちだったかな。
ホールに移動してもなお、煙臭い。それは、自分を含め、乗客たちの服や髪が煙を吸っているから。
続々と、乗客がホールに移動。

22時過ぎ頃、ホールを出られるようになった。
スタッフの方がしきりに「本日お帰りになる際の交通費は後日精算してください。」「ご自宅やお車の鍵、お財布を失くされてしまった方、泊まるところがない方もいらっしゃると思います。そのような方はお申し出ください。」とアナウンスしていた。
私たち家族は、22時台でも羽田空港から電車とバスで帰宅できたし、兄以外は財布も持っていたので、帰宅費用請求用紙だけもらって帰宅。
お財布を失くしてしまった方には、当日はひとまず5万円/人支給されていた。
「お預けになった荷物のご返却は確認し、後日連絡させていただきます」というアナウンスには「全部燃えちゃったんだからそんなことできないだろう」というどよめきも起こった。まあ、その時点では、「本当にすべて回収不能な状態である」という確認は取れていないから、こう言うしかなかったのだろう。

24時前に帰宅しニュースでまだまだ消火活動が続く滑走路の様子や海保・日本航空の記者会見を見た。
シャワーを浴びてベッドに入るも、ドキドキして、なかなか寝付けない。

翌日、翌々日にX (Twitter)や各種メディアの報道を見ると、後方の座席は事故が起こった瞬間から、ものすごい煙や熱さだったという。煙を吸ってのどをやけどしたり具合が悪くなってしまった方もいて。
前方座席に座っていて比較的安全に避難できた私たちは、ただ運がよかったとしか言いようがない。

翌朝、8時間消化活動を続けるも機体は全焼、というニュースを見た。
夕方には、JAL516便事故専用のフリーダイヤルが用意され、連絡を受ける。
とても丁寧な口調で、体調確認や謝罪のお言葉をいただいた。
当座、見舞い金10万+物品補償10万を振り込む、その振込用紙を送付する、という説明を受けた。高額品の補償は別途請求可とのこと。他にも何かあれば、随時専用ダイヤルに連絡してくださいとのこと。
事故後の調査対応、その他の欠航対応など忙しい中、350人以上も、一人一人に電話して、JALさん、本当にすごい。

1/6には速達で振込用紙が到着。
口座情報記入用紙と、焼失物品リスト記入用紙、返送用封筒2枚。
返送用封筒は2枚とも、手貼りで切手貼ってあった。年始で銀行休みだから、料金後納郵便の設定とかに出来なくて手作業で貼ったのかな…。
郵便より、オンラインフォームの方が早いし、JAL側の手間減るくない??とも思ったけど、スマホ燃えちゃった人いるもんね…
自宅住所に郵送が着実だね。
よく考えられてて感心。

JALからの速達

年始の人手不足の中、JALをはじめ航空各社のたくさんの方々、警察、医療関係者の方々など、熱心に執務にあたられる様子を見た。
かくいう私は、カレンダー通りのスケジュールで年末年始休みをいただくしがないサラリーマン。世のため人のために働く方々に、頭が上がらない。
ありがとうございます。

この事故で何より感じたのは、生きているって奇跡なんだなということ。

紙一重で生き延びた命。
あんなに燃え盛る大火をはじめて見た。
こわかった。
おばあちゃんからもらった高級アクセサリー。愛用のスキーウェア、買いたてのキャリーケース、眼鏡。奮発したブランドコスメ。推しのライブグッズ。お気に入りのニット。大切な物品がたくさん燃えた。

でも、時を同じくして、能登半島では、これがもっともっともっと大規模に起こっている。
大勢の命が亡くなっている。
大火どころではなく、一面、360度、瓦礫の山、火の海。
恐ろしい津波。長引く余震。
東京なんかよりもっと寒くて、羽田空港よりも環境が整っていない満員の避難所。家も荷物も、全部焼失。家族と会えない人もいる。
そう思うと、言葉が出ない…
一人でも多くの方の命が救われますように。
早く、余震が収まりますように。

私は恵まれていて、運がよかった。
こわかったけど、家族と一緒にいれたから心細さもまぎれた。
JALの方々をはじめ、たくさんの方に救われた。支えてもらった。

その後も、数多くの友人からあたたかいメッセージをもらった。
そのうちの一人、仲良しで毎年会う学生時代の友人が言ってくれた言葉。
「いつでも会えると思ってちゃダメね。」
本当にその通りだ。
いつ、事故や災害にあって死ぬかわからない。命は儚いから、生きているうちに、大切な人に会わなきゃ。いつもありがとうって、お礼を伝えなきゃ。やりたいチャレンジは、ためらわずにやらないと。

そう強く思った2024年の始まりでした。

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