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何もかも何もかも全部が全部 ~呼び捨て さんづけ に感じたこと~

日曜日の夕方。
笑点やサザエさんを見て、休日の終わりを感じてしまい気分が滅入ってくるその少し前。
昔っから必ずやっている番組がある。
そう。ゴルフである。

その魅力は未だにわからないままであるが、日曜にゴルフを見ると、何だか寂しくなってくるのは私だけではないだろう。もうすぐ休みが終わってしまう、と。

そんなゴルフ番組でちょっとした話題を耳にした。

解説者が選手を呼び捨てにしながら解説していた、と。

解説者ともなれば、ゲスト解説とかでもないだろうから、それ相応に歳も重ねていることだろう。ということは、出場している選手は(ほとんどが)年下の選手ばかりだろうと推察できる。スポーツの世界だろうから、上下関係も(それなりにと言っては失礼だろうが)しっかりしていると考えられる。後輩のことは、呼び捨てにしていても何の不思議も感じない。そこには、もちろん親しみの意味も込められているのだろう。
仲が良くて、一緒にご飯を食べにいくなんてことがあれば(きっとあるのだろうが)、自然にその関係はつくられていき、呼び捨てで呼ぶことに違和感はない。

が、どうやらその呼び捨てに対して様々な意見が飛び交ったらしい。
どんな些細な情報すらすごい勢いで飛び交うこの時代ならではだとも思うのだが。

当の本人は「私なりの解釈で(解説を)引き受けさせていただきますのでどうぞ私の解説をお楽しみください」というようなコメントを出した。「日本語は難しい」とも。

いや、本当に日本語は難しい。世界でも5本の指に入るほどの難しさのようだ。でも、そんなことを言いたいわけではない。

素直な意見を素直に言えるのがSNSの良さであろう。その意見に共感し、共有し、発信し、連帯感を感じる。
だが、反対意見に対して攻撃をする必要はないはずだ。
昨今のSNSに関する記事を読んだり、ツイッターのつぶやきを見たりすると、なぜなのか攻撃的に感じる文章を目にすることが多い。これではSNS疲れなんて言葉が生まれるわけだと思えてしまう。

呼び捨て。
例えば、「佐藤」(単純に多い名字だからです。他意はありません。)
この言葉を聞いただけでなぜ不快に感じるのだろうか。
ましてや、呼んでいる人物の人柄も二人の関係性も知らないのに。

学校では、ジェンダーフリーが強く叫ばれている。
友達をあだ名で呼んではいけないらしい。
呼び捨てもだめ。
男の子にも「~さん」とさんづけで呼ぶ。
“ちゃん”もだめ。
“くん”もだめ。

うーーーーん……。

これって、日本語が難しいからだけなのだろうか

何もかも全てを多数決で決めるのが正しいとは思わない。
少数意見に耳を傾けるのも大切なことだというのも理解しているつもり。
でも、何でもかんでも全ての場合において統一しなければならないものなのだろうか。

公共の電波を使っているのだから、だめだ!
学校のような公共の場だからだめだ!

ひとつのルールを、全ての場合において当てはめなくてはいけないとしたら、それは人と人の繋がりを断つことにつながりかねないのではないか。
SNSという便利なものが、ルールが整備されないまま発達し、結果として人を傷つけている。
そして、繋がりを深めてくれるツールが、結果として繋がりを断とうとしている。

これは、日本語が難しいせいではない。
相手を慮る心。
この心をいつも持っていたいと感じさせてくれたニュースだった。

私も、呼び捨てを使う人だからこそ。

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