メタフィジカルデザインについて

もしも哲学者が一人で著作を書くように、人々が集まってみんなで一冊の哲学書を書いたら?その哲学書が、本ではなくてプロダクトやサービスの形をとって世の中に出ていったら?ということを newQ で考えている。

私たちが日々作り出しているものやことはすべて何らかの思索の結果ではあるはずだけれど、だからと言って哲学の結果であるというわけではない。では、哲学的に考えることや哲学的に考えられたことの特徴とは何か。この問いに答えなければならない。

2020年の夏から冬にかけて、多摩美の社会人プログラムである TCL でデザイン思考を学んだ。何ヶ月もかけてデザイン思考の実践を行う中で、どうしてもうまくいかないことがあった。何がうまくいかないのかを説明するのは難しいのだけれど、表面的に現れる問題としては「課題に対する解決のアイデアがイマイチつまらない」とか「いくらプロトタイプをつくってもどれもそれなりで決め手に欠ける」みたいな感じ。デザイン思考が「誰でもデザイナーのように考え、つくれるようになるための思考法」だとは言っても、そんなに簡単なわけないじゃないかというのはまあその通りだ。でも、プロのデザイナーと非デザイナーでは明らかにちがっている「何か」があるなと思った。視点なのか手段なのか何なのか。その「何か」を求め、私はアマゾンの奥地に...ではなく渋谷の桑沢デザイン研究所の夜間部に通うことにした。

一番「ほ〜」という体感があったのはプロダクトデザインの授業で、石膏ボードを削って傘の持ち手を作っているとき。「ふむ」という感じがあった。物が持っている必然性というか、「もう削るとこないよ!」という声が聞こえる。プロからしたらまだまだ改良の余地が大ありな代物だったとは思うけれど、少なくとも私の手の範囲では「完成した」という感覚があった。もしかして、プロのデザイナーが持っている「何か」とは、完全性の直観なんじゃないだろうか?

美術館で展示してある絵画を眺めながらいつも考えることが二つあって、一つは、何でこの題名にしたのかなということ。もう一つは何でこれで完成と思ったのかなということだ。画家はどうやって筆を置くんだろう、まだ余白はあるのに、なぜこれが完成だとわかったんだろう?どうしてこのように名付けたんだろう?私には決してわからない論理で、しかしその絵には過不足がなく、そのようでなければならなかった必然性がある。

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Wassily Kandinsky, Composition VIII (1923) 


完全へ至ろうとする、制作とは異なるもう一つの営みに、哲学がある。完全性を真理と言い換えても怒られないと思うけれど、そこへ至ろうとする方法のああでもないこうでもないや、そもそも完全って何?どういうあり方をしてるの?てかあるの?完全性のわかり方とは?というさまざまな角度からの不断の問い直しが哲学の歴史そのものだ。

完全性を直観できないのなら、思弁的に迫っていくしかない。哲学の問いには、ひたすらに「本当にそうか?」「なぜそう言えるのか?」と、納得できるまで問い尽くそうというというコンセプトがあって、この繰り返しの果てで後ろを振り向いてみると、一つの世界が立ち上がっている。考えうる可能性をすべて網羅したという意味で完全なのではなく、問いによって立ち上がった世界が、私が削った傘の持ち手のように自らを充足させているという完全性

哲学が世界制作を通して目指している、この思弁的な完全性への接近を意識的に行い、非デザイナーや組織が行うデザイン思考のプロセスの中に位置付けて実践する試みに「メタフィジカルデザイン」と名付けてみる。足りない、ちがっていると感じた「何か」が埋まるかもしれない。

newQ が実施している「問いを立てるワークショップ」は、使用している概念の理解をお互いにすり合わせたり、テーマの捉え方のバリエーションを増やしたり、そもそも何がテーマであるべきなのかを発見したりということにとても力を発揮する。ただ、そういった目的のためだけではなく、実際につくり終えたあとのものを前にして「見よ、これは極めて良かった」と安息するための、価値の源泉でなくてはならないと思う。

ひとりで考えるのも楽しいけれど、社会には誰かと一緒に何かをつくっていく喜びがあって、そのために newQ が良いはたらきをできたらこの上ない幸せ。「メタフィジカルデザイン」の続報に乞うご期待...!

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