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帝劇のプリンシパルがUber Eatsを始めた話

書かざるを得ない、と思い私は今筆を取った(厳密にはMacbookのキーボードをカタカタ打ち鳴らしているだけだが、人差し指から薬指のみを駆使して…苦笑)。

さて、これを読まれている読者諸君は「帝国劇場」、あるいは『ミス・サイゴン』をご存知だろうか?ジャニーズの某氏やアイドルを辞められ裏方に回ったT沢H氏などが立ってきた東京日比谷にある由緒のある劇場、と言えばお分かりだろう。数年前にヒュー・ジャックマン主演の映画『レ・ミゼラブル』が話題になり、チケットが取りにくくなってしまったミュージカル『レ・ミゼラブル』日本版が上演された西洋建築の美しい劇場だ(ああ、あのフッカフカの真っ赤な座席も今や懐かしいしかない…)。昨今テレビ出演の多いミュージカル俳優、井上芳雄さんや新妻聖子さん、山崎育三郎さん(『レミゼ』マリウス役)がデビューされたのもこの劇場だ。

さて、お分かりになるだろうか?

この「帝国劇場の舞台に立つことのイミ」を。

ハリウッド映画に出る、と等しい重さ、凄さがある(少なくとも私はそう信じて疑わない)。つまり、この劇場で役付きのパートをゲットしたならば、俳優のあなたの名は売れる、知名度が上がる。そんなところだ。あるいは、すでにその界隈ではもはや「知られた存在」であるわけだ。ミュージカルを目指す者であるならば、誰もが夢に見る、いや、目標とする舞台が帝劇=帝国劇場なのだ

これでもまだしっくりと来ない、という人にには、そうだな…

「アダジ、実ヴァ〜、朝ドラに〜、出ルノヨォ〜〜〜」

と友達に言われたらどうする?そう!!すごいでしょ!!!びっくりでしょ!!!これから売れるやん!すごいやん!!!テレビ出てる俳優なら大変でもやりたい!出たいっていうアレやろ?っていったところでございます。(あ、別にバナナマンの日村さんがやる貴乃花のモノマネ付きで読まなくてもいいんですが。私の友人はそんなんじゃない!けったいな!って人はどうもすみません)

その「凄いやん!」っていうのが、日本のミュージカル界では帝国劇場であり、『ミス・サイゴン』でもあるわけですよ(『レ・ミゼラブル』も然り)。歴史と社会性を持つ、イギリスのウエスト・エンド(アメリカのブロードウェイと同じような所。『オペラ座の怪人』が誕生したのも実はウエスト・エンドです。イギリス人、すごくね!?←ついつい脱線)という劇場街で生まれたミュージカルです。なかなかね、20年以上愛され続けるミュージカル、って無いんですよね(ちなみに『ミス・サイゴン』の上演はベトナム戦争後の1989年です)。幾度上演してもお客さんが集まり、リピーターになり、何度も何度も劇場に運ぶ。これ、出演されている役者さんの熱烈なファンだったらおかしくないけれど、そうでない人も「もう一度見たい!今度は違うプリンシパル(役付き)キャストでも!(ロングランの長い公演では、トリプルキャストと言って公演毎に3名の役者が同じ役を演じることが多い)」ってなるわけですよ。

作品の魅力、物語に社会性や普遍性があるから感動するんだと、音楽も素晴らしいから心が動くんだ、生オケの演奏が胸に響くから劇場に行きたいと高いチケットに手を伸ばすお客さんが大勢いるんだ、と思うんです。そして私もその中の一人です。そんなねえ、社会的に実際あった出来事をベースにし、作られた音楽の旋律が一度聞いたら忘れ難く、アンサンブルキャストの技巧を垣間見れる舞台って正直あんまりないんですよ!(少女との婚姻など、『ミス・サイゴン』が問題にされる点はあるにしても…)

さて、その『ミス・サイゴン』で役付きの役をもらう、というのは本当に凄いことなんです。

全国から集まった実力者たちの中でも鎬(しのぎ)に鎬(しのぎ)を削り、選ばれたのがまさに「プリンシパルキャスト」なのです。チラシで言うところの、写真が大きく印刷されている、パンフレットの前の方にいる俳優がた。もちろん、アンサンブルキャストになるだけでもすんごいこと。彼らなしには舞台は成り立ちませんし、個人的にアンサンブルの技術や意識の高さは全世界でも日本のミュージカル俳優が一番ではないか…?と偉そうに私は思っています(ブロードウェイやウエスト・エンドはアンサンブルが基本的に揃っていない、ダンスバラバラ=個性っちゃ、個性、というか、雑、なんですよね…もちろんそれも素敵だダケド!!!!!)。

そして、その『ミス・サイゴン』でトゥイ役を務められる予定だった神田恭兵さんという方が今日、Twitterでこう呟かれた(すみませんが勝手に引用させて頂きます)。

「3月下旬からウーバーイーツの配達員をやっています。」

私はこれを見て、正直絶望した。悲しくなった。がっかりした。それは神田さん彼に対するものなんかでは一切なく(そんなことあるはずがない!)、日本政府や日本で文化的事業、それに従事するプロフェッショナルな方々への国からの軽視にある。私が大切にしてきた、私自身を救ってきた、私に夢を見させてくれた、無学な自分に知識をくれた、舞台やミュージカル、演劇、音楽、アート、カルチャー(文化)に対する三下り半が突きつけられた。国からの支援は、まだない。テレビには「フリーランス」と「フリーター」を言い間違え、いいや、同義だと勘違いされているお偉いコメンテーターがいる。その人は液晶の箱から「さも分かったように」講釈を垂れるばかりだ。政府はなお、二枚のマスクで国民を救おうとしている(色々な意見の方がおられることは承知の上だが、私はこれは救済ではなく、支援ではなく、ある種象徴的な出来事だと思っている)。(訂正)1人当たり10万配布…+条件付き??wwww by SEIHU with shijiritu kyuraku chuu xx

5月から始まる予定だった『ミス・サイゴン』のロングラン公演、この公演中止がオフィシャルに発表されたのが4月8日。神田さんのツイートを見て欲しい。「3月下旬からウーバーイーツの配達員をやっています」。少なくとも3月下旬には公演中止の目処がついていたのだろう。

彼らはリモートが許される大企業や外資系の会社に勤める社会人ではない。俳優である。さらに言えば、市村正親さんほどキャリアを積まれた方は違うかもしれないが、歴とした「ミュージカル俳優(舞台俳優)」だ。稽古がなくなり、公演が潰れた。大きな事務所に入っていない俳優も多いはずだ。稽古期間分の給料は、公演中止分の保証は、あるのだろうか?私には分からない。分からないけれど、主催者からの保証はそんなに多くは無いだろう。かの東宝がバックにあったとしても。

先ほどの神田さんのツイートには続きがあった。

そして私はまた一つ、強烈なボディブローを受ける。

ただ配信とか精神的にやる気になれないし、配達は世間的に必要なものだと思うので、しっかりコロナ対策をして今日も行っていきます!」

グオオおぉおおおおおおオォォォォォォ…(白目)

辛い、辛すぎるよこんな。プリンシパルキャストが、ウーバーイーツですよ!(決してウーバーイーツを馬鹿にしているわけではない。私の兄もやっている。寧ろ、5Gやテクノロジーの発達によって近い将来ブルーカラーとホワイトカラーの格差は無くなっていく、ブルーカラーの仕事にもっと価値が置かれる時代が来ると思っている、シランケド)

しかも、「配信とか精神的にやる気になれない」とおっしゃっている。。

私はこれを見て、はたと気づいた。

テレビや映画などで名の売れた俳優、時間とお金に余裕のある、大きな事務所の後ろ盾がある芸能人がYouTubeやInstagramなどでライブ配信をしているのだと。それを可能にさせるのだと。元々名が売れているから、その配信を見るだろうフォロワーの母数が確証されているわけだ。

ああ、個人的なプラットフォームであったはずのInstagramも商業主義・資本主義のコモディティー化してしまったな(故、野村克也氏のようにボヤく)、と私は思うのだ。

アメリカやイギリスでは俳優同士はユニオンで支え合い、俳優を応援する者もユニオンへのチャリティーに第三者として支援することができる。が、しかし。ミュージカル俳優を支援できるプラットフォームや力のある、ユニオンなるものはないし、「自分の権利を当たり前に主張する」という行為自体がタブー視されている文化的なものが日本にはある。俳優に対しては、「夢だけ見させてよ。自分の権利だとかなんとかさ、現実の匂いをここまで持ってくるんじゃないよ。クセーんだよ」、という無言の冷たさがある。

ああ、欧米諸国では多民族国家というのもあり、差別が見える化されている。それこそ分断がなんとなくは、見える(いや、はっきり差別が見える。見えるから対策の仕様がある、と某ノンフィクション作家が言っていたな)。一方、日本では「見えない差別」が年々広がっているように思う。ここにおける「見えない差別」とは、イギリス的な階級差でもなければ、アメリカ的な人種問題でもなければ、もっと曖昧で、漠としたものだ。だからこそ、たちが悪い

神田さんの2つ目のツイートを見て、私は「Instaライブ配信は見えない分断の象徴的なもの云々」であると感じた。有名人のライブ配信の影で見えない俳優(アーティスト)たちが生きていること、政府から支援をされないこと、ウーバーイーツをしていることを、私たちは知るべきだと思った。もう一度言うが、帝劇に出られるプリンシパルキャストの彼は、「今回のコロナの影響、政府の始動の有無、演劇支援の礎が無い日本社会」を受け、「ウーバーイーツを始めた」のである。

演劇だけでなく音楽などの文化的なものを志す若者にとって、
こんなに夢のない話はないと思う。
(日本は本当に、アジア一の先進国なのだろうか…)


今家にいる小学生のちびっこや、学生、社会人は外に出ない時間、何をしていますか?

VOD配信のサイトでアニメや映画、ドラマなどを見ている。ついこの前なんか、ソダーバーグ監督の『コンテイジョン』がTwitterのトレンドに上がったりした。

私を含め、あなた方は日常レベルで、今回のような家にいなければならない緊急事態ならなお、文化的なものを摂取し、それに救われているわけだ(平々凡々とした表現で申し訳ないが)。

コロナ騒動を機に、政府の対応を見て、アートを志す若者が諦めてしまったらどうする。それは文明・文化の死を意味する。大袈裟かもしれないが、文化と言うものは時に政府を監視し、メスを入れる。最近のマスメディアでは「見えないものには触れない。腫れ物には触るな」という風潮が強い。それに日本人は海外の人に言わせれば、polite(=礼儀正しい、優しい)だという。

(日本の)テレビインタビューでも見たことがあるだろう、

インタビュアー:「日本人の印象はどうですか?」(日本人や日本のマスメディアは外面気にしすぎ、まずこれが愚問。日本人を各個人としての日本人、でなく「日本人」というラベル付けされた大枠で捉えていること時点でおかしくないか?どんぐりの背比べじゃあるまいし)

インタビュイー:「ミナサントテモシンセツデ、レイギタダシイデス/Well...they are really kind and polite (bow...お辞儀の真似)」

インタビュアー:「おーー!てんきゅー!!(片言)」

しかし、"polite"には「事なかれ主義」が含まれるのではないだろうか。外国人がそれに気付かなくとも、私は幼い時から"polite"は触れたら傷つく薔薇の茎であることを知っている。咲いている花は見事だ、しかしそれを支えている茎には細かで鋭い刺が生えている。「ポライトな我々」は「見てみぬふり」が実に上手い。都会なら尚更。文明が生まれ、テクノロジーが発達し、コロナという不足の自体が起きた時、私たちが行き着いた先が「礼儀正しい、主張しない日本人、見て見ぬふりする他人任せ」の日本人だったとするならば、"polite"が決して美談で終わらないことを伝えたい。それこそ、"polite"の暗部に目を向けよ、と。当事者意識を持たない、俗に言う「礼儀正しい」人間は、裏切り者である。偽善者である。無教養でしかない(「先進国」と謳うなら尚更。それは無責任以外の何者でもない)。我々は"sympathy"ではなく"empathy"を悪魔に売り渡し文明として繁栄したのだとするならば、こんなに救われないことはないと思う。権威のある者や組織、国にとって「何も言わないご都合の良いpoliteな人間である」ことほど、美味いものはないだろう。共感性(エンパシー)や知性(インテリジェンス)を持って生まれた生物でありながら、それを放棄するというのは未来の子供達や若者を愚弄するに等しい。

だからこそ、これから各個人が「当事者意識」を持ちながら出来ることをやり、伝えるべきことを発信し、今まで蔑ろにされてきたものを無くさない準備、対策、支援の形を取るべきだと強く思う。

以前野田秀樹氏が「演劇の死」云々で批判を浴びたりしていたが、「文化の死」は「国家の死」であり「民主主義の死」であり、「後進国の象徴」だ。私はそれ以上説明をする気はないし、言葉にしたところで形骸化されていってしまうような不安を覚える。幾分主観的になり過ぎるのも良いことのようには思えないからだ。寧ろ、これを読んだ人の意見が一番大事だと思う。だから、私がこれ以上説教臭く何かを書く必要はない。だって、私が書いているのは「とある若者の一意見」なのだから。

こんな馬鹿偉そうに長々と文章を書き連ねている私だが、今現在、学生である。四年生大学を卒業したのち、「これに人生を掛けたい、いつか既存のシステムを変えたい、私に向いているかもしれない」と思い立ち映画の道を志している。この4月から、美術系大学院の2年生になる。大学はオンライン配信の授業もやっていなければ、5月の4週目から始まるらしい。果たして、授業が本当に始まるのかも、分からない。卒業制作の映画が撮れるのかも、分からない。制作メインの大学で奨学金を借り、高い学費を払ってまで院生をやっている。前期の学費納入期限はもうすぐそこで、果たして授業が行われなくても学費を払わなければならないのか、と肩を落とし頭を抱える(これも、所謂「自己責任」なのだろうか…)。ドイツ人留学生の30歳の友人にこの話をしたら、「私は国から奨学金(給付)をもらってるから!」と言っていた。なるほど…

そう言えば以前、オリンピック後には景気が落ち込み就活が厳しくなるから中退してでも内定が出たら働きなさい、と映像業界の知り合いに言われた。俗人は、映画一本では食えないからだ。日本では。

「ならば卒業制作で海外でも話題になるような作品を作らねば」、そう意気込んでいた私に今あるのは諦観である。それは、映画を志すことへの、文化的なものが軽視されている国に生まれてしまったことへの、マイノリティーが見ないふりされ続けている日本社会への、そして自分自身への。

宮崎駿の『風立ちぬ』ではないけれど、「生きねば!」と自身を鼓舞しない限りそんな気持ちは湧いてこない。なぜなら、映画こそ私の最愛であり、私はその最愛を手放さなければいけないかもしれない、と自らの歩み始めた道を疑い始めているからだ。

それこそ、文化の死、先進国の死を意味するんじゃないだろうか。

諦める若者がいて、喜ぶのは誰だ。得をするのは誰だ。私はその「誰か」に決して負けたくはない。けれど、負けそうな気もする…

私は、諦めてしまいそうだからこそ、そうならないようにこのノートを書いたのかもしれない。自戒の念を込めて。

誰かに届かなくても良い、将来私が振り返った時に、これを見て躓いてしまった自分自身をも認められるようになっていればいいな、と思う。

ただそれだけだ。

また何か、書きたいことがあったら書きます。もし、あれば。

P.S. 神田さんのツイートが無ければ、これを書くこともなかったはずです。誠に勝手ながら、神田さん、このような機会をありがとうございました。


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