教会に行ったほうがいいよという言葉にあるハラスメントの影(かげ)

教会に行ってない人

大学生になって教会を離れる人

教会に行った方が良いということは、よくわかっている。しかし、タイトルにあるような言葉を言おうとする前に、そうできない理由があるということに何かしらの背景があるということに、想像力を働かせてほしい。教会にいけなくなっているまたは行かないという決断をしているという時点で、その人に何かしら、思うところや、また、教会に対する気づきや思いがあったか、もしかしたらハラスメントがあったかも知れない。もしそういう状況にあるのであれば、「教会に行ったほうがいいよ」などと安易に言う人に、その理由を言うだろうか?そのような言葉かけをする人に対して、心を開くのだろうか?また、信仰生活は教会に行くことが根底にあると考えている人、または教会に対して躓かなかった人たちが、教会にいけなくなっている人のことを理解することができるだろうか。できないだろう。それは仕方のないことである。その人も何も悪気がないということもわかる。私もかつてそういう考えであった。しかし、教会に行くべきだという人の根拠は理由を尋ねると、多分独りよがりの信仰になってしまうからとか、ひとりでいると信仰がなくなってしまうからとかそういうことをいうのをよく聞く。確かにそういう場合もあるかもしれないが、教会にいかなくなった、いけなくなっている人というのはある意味、本当に神様と向き合っている人だからだということも大いにあるのではないだろうか。また、教会を離れた人にはまともな人が多いように感じる。教会の中には常識のかけらもないようなやばいやつ(特に牧師)が多い。そして、教会で群れているからといって健全な信仰があるのかというとそれはまた別問題である。群れていても、間違った教えまたイエスの御心から遠く離れたような集まりであるならば、それは意味のあることなのであろうか。疑問である。

クリスチャンホームで、大学生になった途端に教会に行かなくなったりミッションスクールに入ってもその学校の礼拝に出ない、とかチャペルに1度も出席しないなどということを聞くが、この世と今まで知っていた世界が解離しすぎていて、この世のほうがある意味よっぽどまともではないかということに気づいて調整しているのではないか。親元を離れ、わりと自由がきくようになって教会から一旦距離を置くというのはある意味、成長過程で必要なことなのかもしれない。ここで私は、決して信仰から離れるということをお勧めしているのではないので、そこは誤解しないでいただきたい。

日本のキリスト教会は、おそらく信仰を持っていくということに対してずっと未熟のままでいたと思う。高齢化が進み、建物としての機能は破壊される一方だと思うが、それも神の計画の一部かもしれない。そのうち逆に、「まだ教会に行ってたの?」というような言葉が出てきてもおかしくない時代が来るのではないかなんて思っている。そうなっているときに、信仰は生きることそのものとなり、そこに御国が生まれることによって建物としての教会という概念がなくなる、そこが、その人がいる場所から御国が興(おこ)されていく。そのようなことになっていくのではないだろうか。

これからの時代、個々がキリストと出会い、それぞれが信仰を確立し、教会で特に解き明かす人を必要としないーそれは一人一人の中におられる御霊が解き明かすことができるから。解き明かしてくれる人が特に必要ということがなくなるーなんだかそのような気がする。

それが本来のイエスのしていたことに近いのではないかと思う。

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