オタの家の話

俺の家の話最終話、余韻がすごい。
このドラマは、クドカンから長瀬への最大限の餞かな。
リアルタイムで感想ツイートも追っていたので、色んな人の感想も入ってると思うけど、つらつらと取り留めのない文章を書いていこうかと思います。

※個人の主観による深読みです。そういうの嫌いな方は読まないでください。





始まりの始まりは、池袋ウエストゲートパーク。当時にはなかった斬新な最先端の映像表現技法、スピーディーでびっくりする大転換、このドラマを作った人はほんとにすごい、と当時かぶりつきで毎週見てた。多くの名優を輩出したIWGPで、主演を張っていたのが長瀬。アウトロー寄りの若干暴力的な、等身大の若者。脚本家・クドカンと俳優・長瀬智也の名は広く知れ渡った。

クドカン×長瀬のタッグは最高を常に叩き出した。とにかくぶっ飛んだクドカンの脚本に、全力をぶつける長瀬の演技が最高にマッチしていた。

そして、長瀬が事務所を退所すると発表され、彼の最後のドラマと目された今作。IWGPと同じTBS金曜。私は気付かなかったけど、連ドラ開始予告CMのBGMがBorn to be Wild(IWGPマコトの携帯着信音)だったんですね。



1話から伏線を回収するなんてのは脳味噌メガバイトな私には厳しいので、最終話に限って深読みします。


観山寿一、42歳。能楽師、プロレスラー、観山家長男。
能楽師は生まれた家による「定められた運命」、プロレスラーは「好きな事」。
長瀬智也、42歳。アイドル、俳優、TOKIOボーカル。
TOKIOが家であるとすれば、ジャニーズタレントとして立つことは「定められた運命」。


寿一は父親の介護・思い出作りのつもりで色々動いていたが、プロレス引退試合で死んでしまう。最終的には自分が発つ際に抱える思い出を作り、自分の旅立ちの手筈まで整えて果てたことになる。
皆から愛されていた寿一は、葬式で大勢の人に見送られる。参列者は多種多様に悲しみ、思い出を語ったり、時には全く関係ない事を言っていたり。オタク達もそんな感じですよね。
火葬も終え、他の家族が死を悼む中、寿三郎だけは寿一の死が受け入れられず、寿一の幻想と生き始める。これは認知症の問題ではないなって。
別れのプロセスは、否認→怒り→取引→抑うつ→受容と言われている。家族各々そのプロセスを辿っているが、寿一を特に愛する寿三郎は否認が強かったのだろうと思う。


いざ復帰舞台を踏む段になり、初めて寿三郎は寿一が死んだ事を認めざるを得なくなる。
(上記は時系列だが、ドラマではここで時間が遡り、寿一は既に死んでいて、冒頭の一家団欒の画にいる寿一は寿三郎の幻想であるというネタバラシが初めてされる。伏線がすごい。鮮やかすぎて思わず叫んだ。)


舞台の上で、寿三郎は死んだ息子・寿一の幻想と向き合い、彼の死を受容していく。ここから演目『隅田川』と濃密にリンクする。能の話はもっとお詳しい方がきっと何かしら残してくださるはず。


ここの寿三郎は、オタクであり、もしかしたらメンバーやクドカンなのかもしれない。
もしもあの時にもっとこうしていれば。でも彼が目の前からいなくなる事実は変わらない。

寿一は寿三郎を「次だよ」とサポートし、能舞台を脇から観覧する。
目の前にいなくても、そっと後ろから支え、家のみんなを見守っている。


そして寿三郎は寿一の死を受容し、彼を誉め、讃え、送り出す。
各々がそれぞれの前を向いて、また生活が始まっていく。

墓前でのさくらと寿一のシーン。
私は常々言っていますが、アイドルって偶像なんですよ。パブリックイメージに自分を合わせていってオタクに幻想・夢を見せてくれる。自分がないってのはそこにもかかっているのかなと。

最後、プロレスリングに幻想寿一が上がってくる。
彼は今までの仮面を脱ぎ捨て、リングに立つ。
家ではない別の、好きな事での表舞台に立つ彼を、新しい世界での活躍をクドカンも客席から見て応援している。

そんな流れに深読みしました。もちろんそうじゃないだろうし、我ながらキモいんですが、いちファンタジーとして残させてください。



で、こんな感じの台詞。

さくら「本当にいいの?」
寿一「俺の家族が大丈夫なら、俺は大丈夫です」

ここで泣きました。TOKIOの事だと思いました。
3人が屋号を残し3人で進むことを決めたことに、長瀬は「良かった」って言ってるんですよね。
1人旅立っても家は家で残ってて、彼は彼で遠く離れてても家を想ってるんだなって。
そうであってほしいし、きっとそうなんでしょう。


いちオタクの別れへの受容をそっとサポートしてくれたように思います。クドカン、あんたすげーよ、すごすぎるよ。
これが、オタの家の話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?