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拝啓、逃げられない同胞達へ

 今が幸せな人、肩の力を抜いて歩ける人、何となくで生きて来れた人、成功を確かに見据えて歩き続ける人、
 どうか、読まないで欲しい。
 そんな文章を綴る。支離滅裂かもしれないが、確かにこれを残したくなった私のエゴである。理解出来ないなら無視して欲しい。














 誰かの自死が、公に出る度、『逃げても良い』と呼び掛ける人達が居る。
『無理をするな』『相談して』『大丈夫だから』『何とかなるから』
そんな言葉が並ぶ。

 全て善意だと判る。そして、その中の一定数は実体験に基づくその人にとっての事実だったろう。

 しかし、“逃げられない人間”は、確かに居る。

 逃げ道が見えないのか、それとも本当に退路が一つも無いのか、それは人それぞれだろう。
 けれど、理解出来ない話かもしれないが、確かに逃げられず、一切の退路を持てず、それでも生きる人間は、確かに居る。
 そういった者から見れば、本当に申し訳なくもあるが、上に並べた善意の言葉は『幸せなのだな』と思ってしまう。そんな風に思えてしまう世の中自体に心から呆れ返るのだけれど、逃げ道が思い付くだけ、逃げても大丈夫と思えるだけ、幸福なのだと思ってしまう。

 そうして逃げて、生き残れたのだろうから。
 生き残れた者しか言葉は発しない。
 逃げても駄目だった者はそこで屍として口を閉ざしている。

 そう言ってしまうと、実際本当に逃げなくてはいけない時に怖くなる人が居るしれないので先に謝罪をしておく。申し訳ない。私のこの思考はごく一部にしか伝わらない“間違い”であろう。安心して欲しい。貴方が逃げる時はきっと大丈夫。

 人はよく、人生を道を歩く事に例える。
 逃げる事を勧める人達には、きっと眼前にも、歩いて来た後ろにも、沢山の岐路が広がり、確かに広大な大地を歩くように見える事だろう。本来は誰だってそうなのかもしれない。誰にでもそんな大地が広がっていると、信じて疑わないからこそ、掛ける言葉があるのだと思う。

 ではそうではなく、どう見えるのか。
 一言だと足りないが、表現するならば、

 足元に道はある。確かに地面も見える。ちょっと先に続いているのは見える。
 けれど後ろは崖。
 進めど進めど崖が付いてくる。
 今まで歩いて来た所があった筈で遠くを見ればうっすら記憶が見える。
 けれど真後ろは崖。忘れ物に気付いてもそこは崖。付いてくる悪戯のような騙し絵かもしれないがぱっと見は崖。

 そのうち歩いてたら目の前に壁が現れる。これは誰にでも現れる物だろうが勢いをつけて飛び付く助走距離は自分には殆ど無いように見える。多分この壁を登ってる途中で落ちても尻餅つく程度の地面は足元にあるがその後ろは崖。それでも進むなら登るしかない。

 何とか登った。見下ろすと、何とかなるんだなぁ、と高さは何となく見える。実感は湧く。ひとしきり眺めたら、またちょっと前しか見えない道を進む。そうするとまた崖が付いてくる。かつて登った壁が崖の一部になっている。
 登ったはずの壁が背後から脅しをかけてくる。ほら行けよ、それともこっちへ落ちれば全てを失うぞ、と。

 そんな感じじゃ無いだろうか。
 もしかしたらたまに脇道が本来見えていたかもしれないが、後ろの崖が気になって仕方ない。
 しかし、その崖に何処か安心感も覚える。
 自分が登って来た高さは確かにここに存在するし、何よりその高さは飛び降りる瞬間にのみ確実に実感できる。自分だけが自覚できる価値をこの崖は持っている。

 “それで良い、もう十分じゃないか?”

 そう思ったら、終わる。
 それが終わりだと自覚も出来るし、それが世の中から見たら批判される事だとも知っている。
 それでも、いつでもぴったり付いてくる、この崖があるからこそ、前に進める人間は、確実に存在する。
 常日頃からそういった人間は批判される。死にたがりだと揶揄される。目の前の崖に立ち止まるのとも違う。確実に進もうとはする。進みたいとも思う。何故なら背後の崖下直行を選ばない自分が未だ居るのだから。それを選ばない理由がまだあるのだから。
 時にその理由は立派だったり、くだらなかったりする。誰かとの約束がまだあるからとか、ちょっと気になってたものの発売日がもうちょっと先にあるからとか。
 そうして恐ろしいのは、終わらせる事、今を失う事そのものではない。

 それら全てが“どうでも良くなる”瞬間である。
 何より自分自身が、投げ捨てたくならない事を、祈りながら歩いている。

 ここまで綴った感覚は、理解されずに嘲笑や嫌悪の対象となる。多分それを理解しながら生き抜いた者のみがこの文章のこの部分まで辿り着いている事だろう。世の中の大多数が知覚出来ない隅っこで、人知れず崖下を選んだ者がえげつない数いるのだと思う。

 私は、肯定したい。
 終わらせた誰かも、終わらせない誰かも。

 振り返って見下ろして、その高さに満足出来たなら、私は一向に構わないと思う。

 まだ足りぬと、後ろを向く事でまた進めるなら、何度だって崖下に向かって泣き叫んでも良いと思う。

 でも、やって欲しくない事もある。

 目の前の自身以外の何かを理由に、飛び降りる事。

 崖下へ向かうなら、あくまで自分で選んで欲しい。
 少なくとも、納得もせずに、選ぶべきで無い選択な事は、確かだと思う。
 逃げられない、逃げ道のない身で、目の前に地獄が見えても、そこで何を選ぶのも、紛れもなく自分自身の意思だとも、思う。
 誰かの所為ではない。誰かが勝手にぶちまけた硫酸沼が目の前にあるかもしれない。でも一歩間違えたら大怪我だとしても、吐き気がする程に一人分の道は微かに残っている。
 世の中勿論どうしようもない壁が来る事もある。これだけ理不尽で物騒だと急に見えない手に突き落とされる事もある。一先ずそれはこの際置いておく。万が一出会ってしまったら死んでも恨み続けてやる。
 それでも、逃げられない私達でも、前か後ろだけはある。盲目だと馬鹿にされようと気にしなくて良い。その二択だからこそここまで来た貴方が、私が此処に居る。

 二択を確かに自分の意思で選ぶ。
 こう進むしか無いと見えている一本道を間違いと言われようと、後から脇道に気付こうと、背後の崖を選ばなかった事でその時を肯定する。
 そしていつかどうしようもなくなって、目の前の道もくだらなく思えて、振り返って満足出来た時、自信を持って終わらせる。

 それで良いと思う。
 そして、そういう歩き方をする者が確かにいる、
 それだけはもう少し、知ってもらえたらとも思う。

 善意を、ありがとう。
 けれど、ごめんなさい。

 言葉だけでは、逃げ道など一つも見えない。

 それでも、確かに歩けるだけ歩いてみせるから、

 終わらせてしまったその時に、どうか悲しまないで欲しい。恨むのは構わない。

 此処から見えるのは、誰もが誰かを救える程、生優しい日常ではない。
 貴方に見える逃げ道は、私からは全く見えない。

 そこを教えようとした貴方の善意に精一杯の感謝と、無力な身を心から謝罪する。

 そうしてまた明日、明後日と、あまりに不器用な二択だけを続けていく。それで許して欲しい。

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