「写経」に意味はあるのかい?
新卒で求人広告のコピーライターをやっていたころ、不景気でまったく仕事がなかった。
リーマンショックの前、ゼロ年代でもっとも景気のいい時期に配属が決まり、配属直後に日経平均株価が大暴落。どうにかして(できれば次の決算までに)人を減らさないといけなくなった日本企業は、もちろん求人広告など出さなくなり、残ったのは、取材先も書くものもなく、ただやる気だけがある新人だった。
当時の課長はじめ課員の先輩たちはほんとうにやさしい人たちで、そんなぼくをずいぶん気にかけ、「こんな依頼があったら」といった感じでいくつも課題を出し、ぼくが書いたひどいコピーに真正面から向き合い、講評をしてくれた。
それはそれで平和な日々だったが、当時、「まずは同期で一番になり、ゆくゆくは会社でいちばんのクリエイターになろう、いや、なる」という、今思うと相当寝ぼけたことを考えていたぼくは、先輩にさらなる課題を要求した。そのぼくの暑苦しい要請に、当時教育担当だったYさんが「じゃ、じゃあ……」と若干引き気味に教えてくれたのが「写経」という方法だった。
過去の名作と言われる広告のコピー。それもボディコピーと呼ばれる、キャッチコピーに続く、短いもので150字、長いもので1000字ぐらいの文章を、調べ、ひたすら書き取っていった。当時は今よりずっとずっと素直だったので、このトレーニングに意味があるのかとかも考えず、会社はもちろん家でも、暇があればそれをやっていた。
ノート3冊分ぐらいをこなしたころ、異動が決まってWebディレクターになり、コピーを書くことも減ったのでやめてしまったが、半年ぐらいは続けただろうか。実践の機会がほぼなかったというのもあるけれど、それによって文章が劇的にうまくなったとか、そういう目に見える成果はなにもないまま、新学期になってラジオ体操行かなくなるように、その習慣をやめてしまった。
はたして、短期間ではあれ打ち込んだこの写経トレーニング、意味があったのかどうか。答えはイエスだ。最近またはじめて気づいたのだけど、写経をすると、頭ではなく手が誰かの文体をトレースし、ときにいい感じに「手がすべる」ようになる。歳をとり、「いつもの自分の動き」に自覚的になったからか、その感覚は昔より鮮明で気持ちいい。
自分の文章力に閉塞感を感じている人。「この文章気持ちいいな」と思う文章を、キーボードでもフリック入力でも、ふだん自分がテキストを打のと同じ手段で写経して溜めていくのおすすめです。
好きな文章でメモが埋まっていくのもまた、単純に気持ちいいしね。