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「まとまった時間が必要」という思い込み
最近、ちゃんと映画をみるのをやめた。
ドラマやアニメ、ドキュメンタリーはともかく、自宅で映画をみるときはできるだけ部屋を暗くして、スマホも置いて、音量あげて、極力大きな画面でと思っている。
そもそも映画館でみせるために、もっというと、観客が画面に集中して、一度も目を逸らさない前提で作られたものなので、こっちもその気になってみないと正しく理解できないからだ。
しかし、先日とある大先輩から「寝る前に映画をみるんだよ。1時間ぐらい。元気なら全部みるし、眠い日は翌日に」という話を聞いて、物は試しと、この方法を取り入れてみた。しかも、もっと極端にして。
いまぼくは、NetflixやAmazon Prime Videoの映画をスマホにダウンロードして、電車移動の途中やラーメンを待つあいだ、飛行機の搭乗待ちの時なんかに、細切れにして映画をみている。結果、はたらきながら、特に平日にみれる映画の数が段違いに増えた。視聴中ちゃんと向き合えば感動もそこまで目減りしない。ふつうにたのしめている。
「ちゃんとみないと、映画は楽しめない」というのは、少なくともぼくにとっては、思い込みだったのだ。
こうやって、「ちゃんとしたときに」とか、「まとまった時間をとって」というのを勝手に必要条件にして、先送りにしてしまっていることが他にもある。中長期のしごとの方針とか、字数の多い原稿とか、本棚の整理とか衣替えとか……。
そうした作業は、確かにまとまった時間をとってやれば効率よく片付くのかもしれないが、ちょっとずつやっても総作業時間はほとんど変わらないし、進めてわかった「あれが足りない!」にも柔軟に対応できるし、結果的に早く終わるんだと思う。だから、毎日5分でもいいから手を付けたほうがいい。
たぶん、そういうのを体感的に学ぶ機会が「なつやすみの宿題」だったんだろうなあ。ぼくは毎年、9/1、出せなくて気まずくなってから手を付けるような、だいぶひどい生徒でした。