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「洋式トイレの便座をおろす人ですね」

夜のオフィス、洋式トイレに立って用を足しながら思う。

「この便座、おろすべきか、そのままにしておくか」

もう2時間は仕事をするとして、今ガバガバと飲んでいるアイスコーヒーの量から算出するに、あと2回はトイレに立つことになるだろう。もうオフィスには誰もいないから、次に使うのも、その次に使うのもぼくだ。どうせそのとき開くのだから、普通に考えればこのまま開けておくのが正しい。

こう見えてもぼくは合理的な人間で、無駄なことが好きじゃない。ついさっきも、見失った本をアマゾンで再注文したばかりである。探しても見つからない可能性があるくらいなら、はなから探すことをしない方がまだいいと、そういう風に考える人間なのだ。この便座も、おろす理由を探す方が難しい。簡単な判断だ。なのに、脳内であの人がささやく。

「洋式トイレの便座をおろす人ですね」

もうテレビだったか雑誌だったかも忘れてしまったけれど、女優の中谷美紀さんが、何かのインタビューで「好きなタイプは?」と聞かれて答えていたのが「便座をおろしてくれる人」だった。ドラマ『ケイゾク』をきっかけに彼女の大ファンになっていたアホ中学生のぼくは決意した。

「二度と、開けっぱなしにするまい」

それ以来、自宅のトイレや飲食店の共用トイレはもちろん、女性が使うことのない男子トイレであっても、あらゆる場面でぼくは便座をおろしてきた。次に使う人の手を汚す機会がひとつでも減るように、なんならそれが中谷さんだったときにがっかりさせないようにおろしてきた。18年変わらないルーティン。徹底クロージング。

だから今日もおろした。1時間後また自分であげると分かっていてもおろした。手間は増えるし手も汚れるが、ぼくの心の中にいる中谷美紀が微笑んでくれているからそれでいい。これからもずっとケイゾクしたいマイルール。

さあ、手を洗おう。