赤ペン先生になれるなんて
小学生のとき、ベネッセの「進研ゼミ」を取っていた。親に頼んで取ってもらっては、ひとつも使わずに放置し、解約される。しばらくして再契約勧誘の書類が届いて、同封されているマンガがおもしろいのは知ってるから開いて、チラシに書かれた化学のふろくにひかれて、「今度はちゃんとやるから」と親にねだり、また取ってもらって……というのを繰り返していた。
マンガやチラシでこどもを籠絡して親にねだらせ、「お子さんの勉強を応援しましょう」という大義名分を振りかざし、申し込み用紙にハンを押させる……当時のベネッセのビジネスはほんとうにすごい。ずるいけどすごい。
ふろく目的の不良ゼミ生だったぼくだけど、年に数回は「宿題」を提出した。そうすると「赤ペン先生」から返事が来る。CMやマンガでみたことのあるあれだ。
赤ペン先生の添削は、本当に丁寧だった。正解には喜びが伝わってくる筆致で花丸を描いてくれた。一方で不正解には、やさしいやさしいバツを申し訳程度に描いたうえで、「どこで間違えたか」がわかるよう赤字で解説を入れてくれた。以前の間違い方と比較し、「ここまではできるようになりましたね! すばらしい!」的なことが書いてあることもあったと思う。
ぼくはそれをみて、少年ながらに「すごい。この仕事だけは絶対にできないな」と思った。そもそも字が絶望的に汚いという事実に加え、こんな風に相手の立場に立って、誰かの上達を自分事のように喜べる共感力も持ち合わせていなかった。また、人の間違いを納得感を与えて正すには、正解を知っているのはもちろんのこと、「なぜ正解が正解なのか」を知り、語れなければならなくて、そんなの自分には無理だと思った。
なのに、である。
それから四半世紀が経ったいま、ぼくは編集者として毎日赤ペンを握り、原稿に向き合っている。どこが素晴らしかったかを伝え、何がわかりづらいのかを共有し、こちらの意図する原稿とどう違うのかを説明する。あんなに向いてないと思ったのに、それをやっている自分がいる。すごいし、こわい。
小学生のぼくが「こんなすごい仕事ぼくにはできない」と思ったように、いち原稿にひとつは、書いた人にぶっささる赤字が入れられるといいなと思って、今日もまた、赤ペンを握っています。