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GR大学(clubhouse グローバル共和国)講演録2022.2.2

〜 知的障がいのある息子がピアニストになった物語 〜

 皆さんこんにちは。ゆぱです。転勤族として住みついた静岡県浜松市で、13年前に妻を亡くし息子と2人で暮らしています。息子ゆういちのパパ、ゆぱと名乗って生きて来ました。

息子は、浜松からJR在来線で毎日往復5時間かけて、名古屋の音楽専門学校の高校科に通いました。ジャズピアノを専攻しました。同時に、日本最初の世界遺産・屋久島にある通信制・屋久島おおぞら高校に在籍し高校卒業の資格も取りました。

そんなふうに、人一倍生き生きと頑張る息子でしたが、ずっとどこか生活のし辛さがあり、私は心配していました。

ある日、NHKテレビで発達障がいに関する番組を観ました。気付くのが遅れて大人になってからでは、生きづらさが複雑化することがあるとのことでした。息子もそうなのかもしれないと心配した私は検査を受けさせました。診断結果は発達障がいではなく知的障がいでした。小学校から高校まで、学校や、社会活動で長くお世話になっていた子ども専門の精神科医から、その疑いを指摘されたことはそれまでありませんでした。本人の頑張りを支援する、見守る。私を含めて、そういう時代だったのかもしれません。

その診断結果に私は戸惑いましたが、17歳を過ぎると療育手帳の取得が難しくなる、息子の将来の保障を親が奪ってはいけないと言われ、私は決断しました。障がいなら仕方がない。息子のせいではない。そうとは知らず今までよく頑張ってきた。これからはそちらの世界で生きてゆけばよい、と思いました。

そして、私も息子と同じ世界で生きようと思い、障がいのある人が働くことを支援をする仕事に転職しました。

でも、17歳になるまで健常者として頑張ってきた息子は、知的障がいの診断を受け容れることができませんでした。後にある専門家に言われました「17歳になって、知的障がいの診断を受け容れることができた人に、出会ったことがない」と。私はそういうことがわかっていませんでした。 

「ピアノを弾きながら働けるかもしれない」と紹介された福祉作業所カフェを一緒に見学しましたが、息子はそこを拒否しました。「僕は障がい者じゃない。パパが検査させたから、僕は障がい者になってしまった」と。

高校を卒業して居場所がなくなった息子は、世の中に対する疎外感を次第に強め、心が追い詰められ、2次障がいとしてパニックとうつを発症し、入院しました。

退院後も、薬の副作用で手足と頭が震え続ける状態になり、回復の糸口が見つからない中、このままでは息子の人生が終わってしまう、と思い詰めた私は、息子のピアノ演奏のレコーディングを始めました。

この3年間で作った息子の3枚のCD、ピアノソロアルバムには、息子の病気との葛藤、癒し、祈りが刻まれています。この時期だからこそ記録できた音です。それを通して、人間としても音楽性も、確かに成長し深まりました。それが生きることそのものだと私は感じています。

このCDに収められた息子の演奏を少しお聴き頂きたいと思います。3枚のCDから選んだ4曲、それぞれ少しずつお聴き下さい。

・1曲目、CD第1作『One Night』、「ある夜」という意味です。回復の兆しが見えない中「始めないと始まらない」と決意して録音しました。鮮烈な即興演奏で始まった幻美な世界は、12曲かけて心の奥底にそっと舞い降り、One Night(ある夜)の物語を閉じます。

・2曲目、CD第2作『Mom and Cherry Blossoms』(ママと桜)。息子の母親の命日に録音されました。強い情念の演奏で始まります。

・3曲目、同じCD第2作『Mom and Cherry Blossoms』(ママと桜)で、6曲かけてさまよい、その末に辿り着いた桃源郷。どこまでも穏やかな、すべてを超越した世界。もはや旋律がどんなに躍動しても、葛藤も情念もない、澄み切った世界が広がります。

・4曲目、CD第3作『12 Years』(12年間)。神さまになった母親に見守られ導かれた12年間の歩みの結実として、13回忌に録音されました。

お聴き頂きありがとうございました。「回復途上にあっても、音楽や心は深まる」その証しが刻まれた3つの物語です。

さて、話は20年ほど前に遡ります。息子と妻と私の3人は、転勤先の東京で暮らしていました。

息子が幼稚園の頃は、家族ぐるみで仲良しの友達もいて、穏やかに暮らしていました。

小学校に入ると、少し様子が変わりました。私は1年生の授業参観に行きました。休み時間になると、子どもたちは元気に遊び回ります。私の息子は、一人ぽつんと席に座り、折り紙を折っていました。何かを折った息子は「はい、パパ」とそれを私に渡してくれました。そんな息子を私はとても不憫に思い、込み上げるものがありました。

その頃、妻が仲良くしていた隣の家の奥さんに、息子はピアノを習いはじめました。ピアノランドという幼児用の曲集でした。その曲集は全ての曲が先生と一緒に弾く連弾になっており、先生の演奏に包まれて、息子は簡単な音をポロンポロンとつまびくだけで、豊かな音楽を味わうことができました。ピアノが得意ではない私でしたが、先生のパートを一生懸命に弾いて、息子の練習に付き合いました。

2年生の夏、私の仕事の転勤で家族で静岡県に移ってからは、ピアノの先生とのご縁がありませんでした。普通に習わせると、すぐに落ちこぼれてやめてしまう気がしました。

東京から転校した先の小学校では、次第にいじめられるようになりました。

物を隠されたり、防災頭巾をボンドで貼り付けられたり、通学の道路に「佐々木死ね」と書かれたり。

そんな息子の心を守りたいと私は思い、再び息子と2人でピアノに向かいました。

「何か弾いてよ」と私がお願いすると、息子は「いいよ」と言って、適当にピアノの音を鳴らします。

私は「おもちゃ箱がひっくり返ったみたいな感じだね」とか「まるで、宇宙船が爆発したみたいだね」と、息子の鳴らす音を聴いて心に浮かんだイメージを言葉で伝えます。

「もう1曲弾いてよ。次はどんな感じかなあ」とお願いすると、息子はまた「いいよ」と言って弾いてくれます。

息子は自由に音を鳴らす。私はその音を聴いて浮かんだイメージを話す。そんなキャッチボールを2人だけで続けました。ピアノが上手になるためではなく、私はただ、いじめられていた息子の心を守りたかったのです。

また、転勤先の静岡県浜松市は音楽の街づくりをしていました。自宅から車で20分の街中に行けば、クラシックから民族音楽まで多種多様なコンサートが楽しめました。都会と違って混むことも少ないので、息子は自由に出入りして、半分居眠りしながら音楽を楽しんでいました。私は託児所がわりに年間100回近く、息子をコンサート会場に放り込んでいました。一流演奏家のコンサートでも、小学生の息子の入場料は500円とか1000円で、かぶりつきで楽しめました。そんな環境で息子は、音や音楽で自分を表現する方法を、自然と感じ取るようになったのだと思います。

その影響もあり、でたらめな音遊びが少しずつ少しずつ、音楽らしくなって行きました。

小学校2年生から5年生まで、息子と私の音と言葉のキャッチボールが、毎日でもなく時々続きました。

その間私は息子に、唯の1度も何も教えたことはありません。息子にお願いして自由に弾いてくれる音を聴いて、浮かんだイメージを話すというキャッチボールを、大切に楽しんだだけです。でも1度だけ、私は息子にアドバイスしたことがあります。ある時息子は、即興演奏をしていて音を間違えたと思い、弾きなおしました。

私は言いました「弾き直さなくていいよ。間違ったその音は、新しい世界への入り口なんだから」と。

6年生になった頃、私は1枚の楽譜を書いて息子に渡しました。音階と、カデンツと言われる1番基本の3つの和音、そしてその3つの和音で弾ける「茶色の小瓶」という簡単なメロディです。それらを何種類かの調、音階で弾かせました。音楽が始まって展開して終わる、終始感と言われる感覚を身につけてほしかったからです。それも遊びにしました。息子が音を間違うと、私はピストルで撃たれたようなそぶりをして笑いました。

ある日、息子と2人で吹奏楽のコンサートに行きました。アンコールでは「星条旗よ永遠なれ」というアンコールでは定番のマーチ、行進曲が演奏されました。演奏に合わせて客席の私たちは手拍子を打ちます。息子も、本当に楽しそうに手拍子をするのですが、それが見事に拍からずれているのです。誰もが簡単に叩けるはずのマーチの手拍子を息子は叩けない。息子のそのリズム感のなさを私は「個性」と受けとめることにしました。それは今も同じです。

また私も、ピアノ演奏は得意ではありませんが、私が好きな坂本龍一さんの曲やヒーリングミュージックを、本来の演奏時間の何倍もの時間をかけてたどたどしく、でも1音1音大切に、息子が小学校の宿題をする横でつまびきました。

そんなふうに、息子とただ音楽を楽しんでいた中学1年生の頃、息子の母親が亡くなりました。

身寄りのない転勤先で息子と2人、途方に暮れた私は息子に尋ねました「これからどうやって生きて行こうか? 」と。息子は答えました「ピアノを弾いて暮らしたい」と。「そうか、じゃあそうしよう」。息子のその望みを叶えることが私の使命になりました。その時から私は息子ゆういちのパパ「ゆぱ」と名乗り、息子と2人で暮らし始めました。「風の谷のナウシカ」でナウシカを守るユパさまのように、息子裕一を守りたかったのです。

亡くなった8ヶ月後に私が主催した妻の追悼コンサートで、息子は祈りの即興演奏を17分間にわたって立派に演奏しました。

その後、街中のライブハウスで行われているジャズやロックのセッションに連れて行き、おじさんたちに遊んでもらうようになりました。自分1人では育てられない、たくさんの人の中で育てよう、手伝ってもらおう、と思いました。即興演奏は皆さん喜んでくれるのですが、ジャズやロックは息子には難しくて中々参加できませんでした。ある人に教えられてブルースのセッションに参加しました。ブルースはたった3つのコードで成り立つ音楽です。これなら息子もなんとか参加できます。でもジャズやロックなら、私も歌って一緒に参加できましたが、ブルースはまったく様になりません。あきらめた私は、毎月のブルースセッションに息子を放り込み、終わる時間に迎えに行きました。ライブハウスから出て来る息子は、ブルースセッションに参加するおじさんたちの煙草の臭いが全身にしみついて車に乗り込んで来ます。私はそれだけは勘弁してほしいと思いながらも通い続けました。

中学2年生の時に担任の先生に言われました。息子さんが行ける公立高校はありませんと。私は東京を含めて探し回り、名古屋の音楽専門学校が、屋久島にある通信制・屋久島おおぞら高校と提携して高校科を作ったことを知り、そこに息子を進学させました。電車と音楽が好きな息子は、毎日往復5時間の通学を苦にもせず、名古屋まで通いました。

そして2人で様々なライブハウスに顔を出し、ジャズミュージシャンを中心に息子を可愛がってもらいました。

そのミュージシャンたちの助けを借りて、息子のピアノリサイタルも始めました。これまでに浜松、屋久島、東京、大阪で16回のリサイタルを数えました。

妻が亡くなったのは2009年3月10日、その丁度2年後の3月11日、東日本大震災が起きました。神さまになった母親に息子が見守られ導かれて暮らしていた中、同じ春に家族などを亡くした東北の人たちを、もう春を心待ちにすることができなくなった仲間だと思いました。また、東北の空にたくさんの神さまが生まれられた。これからの長い長い復興の道のりを見守り導かれるのだ。仲間に会いたい、神さまに会いたい、という思いで、車に救援物資とキーボードを積み、800キロ離れた宮城県気仙沼に息子と2人で向かいました。

津波に流されてドロドロになり、バクテリアに腐食されていくたくさんの家族の「写真アルバム」が、行き場もなく避難所の前に積み上げられていました。その1枚1枚を水で洗い、乾かして、新しいアルバムに詰めて、持ち主や家族の手に戻す活動に参加しました。その作業の合間に息子がキーボードを弾いていると「避難所でも弾いてください」と言われ、息子は毎日避難所で演奏するようになりました。震災直後、避難所になっていた中学校の体育館には400名もの方が暮されていました。息子が演奏すると「頑張れよー」と、被災者の方から励ましの声をかけて頂きました。そんなふうにできた仲間と、今も大切につながっています。

そんな様子を、私がブログ「ゆぱの家」に綴っていると、屋久島に住む知らない女性からメッセージが届きました。「もし親子で屋久島に来ることがあれば、手伝いたい。裕一君とゆぱさんのコンサートを開きたい」と。はじめは半信半疑でしたが、コンサートのできる海辺の音楽スタジオや、寝泊りできるテント村を紹介され、私たちのコンサートのチラシまで作ってもらい、屋久島中に貼ってもらい、私たちは人生初の親子2人だけのコンサートを、屋久島で開くことができました。

そのコンサートに私は「大切なもの、たからもの」というタイトルをつけました。亡くした母親を想って息子が弾くピアノを聴きながら、大切なものを探している人、見つけて大切にしている人、なくしてしまった人、それぞれが自分にとって大切なものに想いを巡らせる、そんなつどいです。屋久島も私たちの大切な場所になりました。音楽のつどい「大切なもの、たからもの」は、私たち親子のライフワークになりました。

またある時、100歳を超えて現役の医師だった聖路加国際病院の日野原重明先生が、先生自身が愛した「葉っぱのフレディ」という、永遠のいのちの物語を、子どもミュージカルにして全国を回っておられました。その浜松公演の関連イベントで、息子に「ピアノを弾いてほしい」という依頼があり、「葉っぱのフレディ」の絵本に出会いました。そんなご縁を頂いて、この「葉っぱのフレディ」を息子のピアノ即興演奏に乗せて私が朗読するステージを演じ始めました。それは偶然、日野原先生が105歳でお亡くなりになった、その月に始まりました。

「すべては移り変わる、でも、いのちは永遠である」というこの物語を、私はいつか独り遺すことになるかもしれない息子への遺言として、生涯にわたって息子と2人で演じ続けると心に決め、「葉っぱのフレディ、朗読とピアノ100回公演」と銘打って演じ始めました。今年の春に、その30回目を演じる予定です。ホームコンサートでも大きなステージでも、ご縁を頂いたいろんな場所で演じています。

 

そして、今日の最初のお話に戻ります。17歳で知的障がいを診断された息子は「僕は障がい者じゃない。パパが検査を受けさせたから、僕は障がい者になってしまった」と診断を拒否しました。

私も息子の可能性を閉ざしたくはありませんでした。日本の大学に進学することは難しいと思いましたが、ピアノの即興演奏で自由に表現する息子の可能性を信じて、ニュージーランドで1年間、ワーホリ、ワーキングホリデーを過ごさせることにしました。知的障がいを診断した医師には大反対されましたが、毎日名古屋まで往復5時間の通学や、屋久島へのスクーリングで、息子は一人旅に抵抗はありませんでした。それまでお世話になった方々を訪ねて「おかげで、高校を卒業できました。ニュージーランドに行ってきます」と、北は青森から南は屋久島まで、2か月かけてお礼参りの一人旅もさせました。高校生の間、2人で夕飯を食べながら、NHKの語学番組を英語だけでなく、フランス語やイタリア語、ドイツ語も楽しんで観ていましたので、たとえ話せなくても英語に抵抗はありませんでした。知的障がいのある息子は、1人でニュージーランドに旅立ちました。

私は、現地の語学学校の日本事務所の職員さんを通じて、息子の現地でのサポートを依頼しました。毎日息子がFacebookに書く記事やピアノ演奏で様子を確認しました。なんとか無事に半年間の語学学校を修了した後、息子はその場で知り合った人のご縁を辿って、ニュージーランドを北から南までひとり旅を始めました。バックパッカーズ(ユースホステルと言った方が分かり易いでしょうか?)に泊まり、ストリートでピアノを弾いて小遣いを稼ぎ、教会でピアノを弾かせてもらい、知り合った人の家に、ホームステイさせてもらい、どこでもピアノを弾いて交流しながら、ニュージーランドを北から南まで独りで旅をして、息子は無事に日本に帰国しました。私も、1度も会った事のない現地の方々とメールでやり取りしながらサポートしました。

日本に戻り、障がいの診断も、福祉作業所も拒否する息子は、自分のピアノカフェを開くために見習い修行をしたいと、知り合いのカフェやレストランを回ります。でもどこの店も、障がいのある子を雇う余裕はなく、全て断られます。それならと、公園に小さなトイピアノを持って行って演奏しますが、通りがかる人たちに「公園で演奏しても仕方がない、駅前でやった方がいい」とアドバイスされ、息子は勇気を出して駅前で演奏を始めました。でも、フレンドリーなニュージーランドの避暑地と違って、寂しい思いをし、高校生たちにからかわれ、次第に孤独感、疎外感を強めた息子は、パニックを起こして入院します。

パニック、うつ、トラウマで入退院を繰り返す中、親子2人で5年近くもがき苦しみ、周囲の人に支えられて、ようやく少しずつ、回復の希望が見え始めています。そんな中、これまで大切にしてきたご縁がつながり、久しぶりに息子は、大きなイベントに出演することになりました。

https://note.com/yupa_sasaki/n/nc7be7546eb4f

 今月2月26日(土)、静岡市のしずぎんホールに出演します。昼と夜の2回公演です。リオ、東京2つのパラリンピック閉会式に出演し、数年前にはNHK紅白歌合戦にも歌手の平井堅さんと2人で出演した、義足のダンサー・大前光市さんと共演します。

コンサート第1部は、息子のピアノソロ即興演奏「ぼくらしく、奏でる。佐々木裕一の世界」、第2部は、大前光市さんの伝記物語をプロの役者さんが演じる朗読に、息子1人が即興演奏で音楽をつける「ぼくらしく、おどる。大前光市、夢への挑戦」。そして第3部は、大前光市さんが「本当に」踊ります。私も息子のサポートで第1部と第2部に登場します。

様々な困難を一緒に乗り越えて、少しずつ見えて来た将来の希望、

今までも、これからも、私はゆぱとして、息子と一緒に、人生の物語を紡いで行きたいと思います。

私は、息子を守るために生きて来ました。裕一のパパ「ゆぱ」として。でも振返ってみれば、私は息子からたくさんの「大切なもの、たからもの」を与えられて来ました。それらが、私の人生をつくっています。それが、私にとっての、give,give,give and receive、だと思っています。

これで、私のお話を終わります。ありがとうございました。

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