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GR大学(clubhouse グローバル共和国)講演録2021.11.19

子どもグリーフサポート浜松代表ゆぱさんに聞く「子どもも大人も困難を乗り越えて生きるために」

静岡県浜松市で遺児・遺族・障害のある人の支援活動。妻を亡くし、障害のある息子(ピアニスト)と2人暮らし。息子と2人で世界に羽ばたく準備中。(世界初)太平洋横断に成功した全盲のヨットマン岩本光弘さんとのご縁でグローバル共和国につながる。困難に感謝して「自分の物語」を生きる。継続こそ力。キーワード「愛情・信頼・つながり」。オリジナル音楽あり。 https://gskh.jimdofree.com/

●オンラインCDショップ
https://halekipa-records.stores.jp/
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はじめまして。ゆぱ、佐々木浩則です。私は「子どもグリーフサポート浜松」という団体を静岡県浜松市で主催し、親を亡くした子どもたちのサポートをしております。私自身12年前に妻を亡くし息子と2人で生きて来ました。ゆぱ(ゆういちのパパ)として活動しています。「風の谷のナウシカ」でナウシカを守るユパ様のように、私も息子を守り続けたいと思っています。息子裕一は知的障がいとパニック症のあるピアニストです。
今日は「子どもも大人も、困難を乗り越えて生きるために」何が必要か、息子と私は何によって乗り越えて来たか、まだまだこれからも乗り越えようとしているかについてお話したいと思います。
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最初にお話したいのですが、私がこのグローバル共和国につながったのは全盲海洋冒険家、全く目の見えない人として、世界で初めてヨットでの太平洋横断に成功した岩本光弘さんとのご縁です。以前、岩本さんがこのグローバル共和国でお話された時に参加してここにつながりました。


私のひとり息子は13歳の時に母親を亡くしました。岩本さんは13歳の時から3年かけて自分の視力を失い全盲になりました。絶望した岩本少年は海へ身を投げようとしました。でもどうしても足が動かない。力尽きた岩本少年は公園のベンチでしばらく居眠りました。すると夢の中に、少し前に亡くなった自分を我が子のようにかわいがってくれた叔父が出て来て言いました「目が見えなくなったことには意味があるんだ。お前の頑張る姿がたくさんの人に勇気を与えるんだ」と。その言葉に命を救われた岩本少年は、大人になりヨットでの太平洋横断にチャレンジしますが、遭難して海上自衛隊に救助されます。世間から非難を浴びた岩本さんはうつになって引き籠ります。もがき苦しんだ挙句岩本さんは、少年の頃、目が見えなくなって死のうとした時に夢に出て来た叔父さんの言葉を思い出します「この困難には必ず意味がある」。

再び立ち上がった岩本さんは、遭難した海への恐怖を克服するために泳ぎ、鉄人レース、トライアスロンに挑戦します。そしてついに岩本さんは、全盲のヨットマンとして世界で初めて太平洋横断に成功します。

その経験をもとに岩本さんは「困難への感謝」、苦しく辛い中に意味を見出し努力することが将来の成功を大きくする。きっと「ありがとう」と感謝できる未来につながる。その思いを世界に伝えるために「グローバルありがとうプロジェクト」という活動を続けています。私も今年1年間毎朝「ありがとうの言葉」と「感謝の気持ち」を岩本さんとわかち合う活動に参加して来ました。私自身12年前に妻を亡くし息子と2人で生きてきた中で「困難への感謝」を実感しているからです。

⭐️困難に意味を見出し、乗り越え、感謝する力は、どこから生まれるのでしょうか?
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また数年前、私は1冊の本と出会いました。「生きるとは、自分の物語をつくること」ユング心理学を日本に伝えた河合隼雄さんの対談集です。後に文化庁長官にまでなられました。この対談の中で河合さんは「耐え難い困難に直面した時に人は、物語の力を使ってその困難を乗り越えることがある」と話されています。この言葉に出会い「私はまさにそれをしてきた。物語をつくり、その力を使って妻の死を乗り越えて来たんだ」と思いました。

⭐️物語をつくる力、困難を乗り越える力は、どこから生まれるのでしょうか?

そんなお話を今日はさせていただきたいと思います。
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12年前、私の妻は自宅で自ら命を絶ちました。立ち会った検視医が当時13歳のひとり息子に言いました。「仕方なかったんだよ。お母さんは心のがんだったんだよ」。心のがんという言葉が私を救いました。それまで長い間、妻の通院に付き添っていた私は、妻の「心に」生まれたがん細胞が全身に広がり蝕まれて亡くなったことを実感できました。いわゆる「自殺」ではない。病気で亡くなったんだと思うことができ救われました。

厚生労働省の報告にもあります。ほとんどの人は自死自殺の直前に精神疾患の状態にあり、心理的視野狭窄、死ぬこと以外考えられなくなって亡くなっている。心が弱いわけでも、身勝手なわけでも、命を粗末にしたわけでもない。病気で亡くなったんだということです。

私は12年間、自死で家族を亡くした人の話をたくさん聞いて来ましたが、世の中の悲しみや苦しみをわが身に引き受けて亡くなった心優しい人も多いように思います。私の妻もそうです。だから、自死は個人の問題ではない。自死に「追い込まない」社会を、私たちがつくる必要があると思っています。
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妻は聡明で朗らかな人で誰からも愛されていました。ネガティブな面をけして外に出さず、そのかわりに私にだけ全てを話していました。全てを知っていた私は、亡くなったことや亡くなり方ではなく、彼女が確かに懸命に生きたことを大切に受け継ぎたいと思いました。

そう思えたのは息子のお陰でもあります。母親の死の第1発見者となった13歳の息子の、心と命を守らなければいけないと思いました。

息子を守る。息子を守るために生きさえすれば、妻は私が妻を救えなかったことを許し、見守り導いてくれる。そう思いました。
私は自死遺族と言うよりは、自死遺児の父「ゆぱ」として歩み始めました。
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妻が亡くなったその場で検視医に紹介され「自死遺族わかちあいの会」という自助グループに参加しました。参加したその場で紹介されて息子は、東京のあしなが育英会が主催する遺児の集いや、東京聖路加国際病院で開かれている遺児のつどいに静岡から参加し、全国の遺児遺族や支援者の皆さんにつながり、支えられ支え合って生きることができました。

妻を亡くした直後、会社の上司から言われました「息子が大丈夫になるまで会社に来なくてよい。仕事は心配するな」と。私は息子と毎日のように山を歩きました。鳥などの小動物が妻の化身のように思え、親子3人で山を歩きました。人間から神さまになった妻との「つながりなおし」ができました。

偶然立ち寄った山のペンションで息子がピアノを弾かせてもらうと、そこのマスターが「お母さんへの祈りのような音楽だね」と言って下さいました。数か月後に再び立ち寄り、またピアノを弾かせてもらうと「随分元気なシンフォニックな音楽になったね」と息子の回復を喜んでくださいました。息子は即興演奏で自由に心を表現することができました。

でも、妻が亡くなった自宅での息子との二人暮らしは煮詰まることも多く、どうやって生きて行きたいか息子に聞くと、「ピアノを弾いて暮らしたい」と言います。「そうか、そうしよう」私は息子の望みを叶える決意をして、妻の追悼コンサートを開きました。息子は17分間の祈りの即興演奏を亡き母に捧げました。
音楽を通じた出会いとつながりの人生が始まりました。
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それでも、私に母親の代わりまではできませんでした。母親の代わりを誰か1人にお願いすることはできませんが、百分の一ずつならお願いできるかもしれない。100人の「母親代わり」をつくってやろうと思いました。自死遺族は一生悲しまなければいけないのでしょうか?息子を絶対に幸せにする、一緒に幸せになる。と肩ひじを張りました。

何か良いことがあればママに感謝することが習慣になり、神さまになった母親に見守られ導かれ、音楽を通じて出会いとつながりの人生を生きる、そんな息子の物語が生まれました。
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息子と2人になり、もう家を建てる必要はなくなったと思いましたが、将来息子がどこで暮らしていても、帰る場所「ふるさと」はつくってやりたいと思い、ブログ「ゆぱの家」を書きはじめました。そこに家族3人の思い出や、妻に導かれた新しい物語を綴りました。5年間で1500本の記事を書き、顔の見えるFacebookに移りました。夢と現実がつながりました。ブログ「ゆぱの家」は今でも残っています。

でも、その5年間はアルコール依存でした。休肝日は1日もなく、毎晩息子が寝てから酒を飲みながらブログを書き、ソファやフローリングの床で目覚める日もしばしばでした。

それまでの人生、器用貧乏で何事も続かなかった私が、継続は力、継続こそ力、と思えるようになりました。続けることしか頼るものがなくなった、ということでもありました。
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妻が亡くなった春、山歩きの中で小動物が妻の化身に思えたとお話しましたが、秋になると夜よく公園に行きました。ひとり離れて凛とした声で鳴いている鈴虫を見つけては「あれがママだね」と探すようになりました。

昼間は「今日はママどこにいるのかなあ。神さまだから、世界中の好きな場所で自由に過ごしているよね。でも、裕一が呼べばすぐに戻って来てくれるよ」と話しました。

また、春が巡って来ました。

妻は桜のような人でした。桜は花が散り始めると一斉に若葉が芽吹きます。まるで命のバトンタッチのようです。「裕一もこんなふうに、ママから命のバトンタッチを受けたんだよ」と話しました。

「人間から神さまにバージョンアップしたママは最強なんだ。いつでも裕一を守ってくれるんだよ」とも。

当時住んでいた、マンション13階の部屋からは、左手に息子が通った小学校、そして右手に息子が通った中学校が見えました。ある日、その小学校の校舎から中学校の校舎にかけて、大空いっぱいに鮮やかな二重の虹が架かりました。母校から母校に架かる2重の虹、そんなことにも奇跡と感謝を感じて暮らしました。
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妻が亡くなったのは3月10日、その2年後の3月11日に東日本大震災が起きました。妻が亡くなった季節を「春よ来い」と心待ちにすることはできません。生涯、春を厳粛に迎えることになった無数の仲間が東北に生まれたと思いました。また、これからの長い長い復興の道のりを見守り導かれるたくさんの神さまが、東北の空に生まれられたと思いました。仲間に会いに、神様に会いに、車に息子と物資を乗せて浜松から800キロ離れた気仙沼に向かいました。

気仙沼では「思い出は流されない」というプロジェクトに参加しました。津波で泥に流されたアルバムの写真を、バクテリアが腐食させる前に洗って新しいアルバムに入れ、持ち主や家族が探しに来るのを待つ活動です。息子は作業の後毎晩、避難所で祈りのピアノを弾きました。中学校の体育館で400名の方が暮らされていました。被災者の皆さんが逆に息子を励ましてくれました。音楽を通じた仲間と今も大切につながっています。
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一方息子は、九州の世界遺産・屋久島にある「通信制・屋久島おおぞら高校」に在籍しました。そのことをブログに書くと、屋久島に住む面識のない女性からメッセージがあり、私たち親子のコンサートを屋久島で開いて下さいました。屋久島でも大切な出会いとつながりができました。

「大切なもの、たからもの」と名付けた音楽のつどいを屋久島で始めることができました。母を亡くした息子のピアノを聴きながら、大切なものを探している人、見つけて大切にしている人、なくしてしまった人、それぞれが自分にとって「大切なもの」に思いを巡らせる、そんなつどいです。
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その後、息子の「ピアノリサイタル」がスタートし、東京、大阪、浜松、屋久島で16回を数えました。

高校卒業後は大学には行かず、20代はずっとワーキングホリデーで世界を回り「音楽を通じた出会いと交流の旅」を続ければよいと私は考えました。

その頃、毎日新聞全国版で私たちが自死遺族であることを公表する機会があり、公表してよいか息子に確認したところ「ママの自死はいいけど、、、」と初めて息子の口から母親の自死についての言葉を聞くことができました。5年目にして、やっと乗り越えた実感を持ちました。
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そんな頃、それでも「息子の何かがおかしい」と心配し、遺族会で長年お世話になってきた医師に診断をお願いしたところ「知的障がい」があることがわかりました。17歳で障がい者手帳を取らさせることには不安があり、とても悩みましたが「大人になってからでは手帳の取得が難しくなる。息子の将来の保障を親が今奪ってはいけない」と医師に言われて決断しました。

自死の次は障害、また1つ大きなネットワークを与えられたなあ。与えられた2つの大きなネットワーク、ここで生きて行けばよい、人生を迷う必要がなくなったと思いました。
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もちろんワーキングホリデーは医師から大反対されました。知的障がいの子に外国で独り旅をさせるなんてと。
でも私は、障がいがあるからあきらめるということができませんでした。
一番安全な国ニュージーランドを選んで1年間、ワーキングホリデーを過ごさせることにしました。息子もその気になっていました。

「お陰さまで高校を卒業できました。ニュージーランドに行ってきます」という「お礼参りの旅」、ワーキングホリデーのリハーサルを兼ねて、青森から屋久島まで、全国で息子がお世話になった方々を2ヶ月かけて訪ねる一人旅を息子にさせました。

そして私は知り合いの伝手を辿って、ニュージーランドにいる面識のないいろんな方に連絡をとり、1年間の息子の旅を支えてもらいました。北島オークランドの語学学校を卒業し、タウランガのバックパッカーズに泊まりながら、ストリートでピアノを弾いて小遣いを稼ぎ、南島に移ってクライストチャーチの日本人教会にお世話になり、教会の牧師の紹介で、ニュージーランドで最も美しいと言われるミルフォード・サウンドに近いテ・アナウのヤギ農家でホームステイしました。その間ずっとピアノを弾いて交流し暮らしました。クライストチャーチで開かれる「カンタベリー・ジャパンデイ」という日本文化を紹介する大きなイベントにも、その後3年連続で出演しました。
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息子がニュージーランドに居る1年間、独り暮らしになった私は、息子のピアノ小屋の建築設計を始めました。

そしてまた、それまでは息子の練習相手として私は歌を歌っていましたが、初めて「自分のために歌いたい」と思い、学生時代に憧れて聴いていたフランス語のシャンソンや、ドイツやイタリアの歌曲を歌い始めました。
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息子の帰国を待って、全てを見届けた妻の父が神さまになりました。
自分の妻を亡くし娘を亡くし、85歳まで大阪で独り暮らしを続けた義父のもとに、妻が亡くなった後も毎年通って一緒に過ごして来ました。

帰国後、親子2人で再び屋久島を訪ねました。浜松に完成した息子のピアノ小屋に「ハレキパ」という名前を暖簾分けして頂くために、屋久島でコンサートをさせて頂いた音楽スタジオ「ハレキパ」のオーナーを訪ねました。その帰り道で、妻の父が亡くなった知らせを受けました。

屋久島から鹿児島に向かう貨物船はいびすかすの甲板で、息子に義父の死を伝えました。「これからはママやおばあちゃんと一緒に、裕一を見守ってくれるんだよ」と。
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息子の「成人式リサイタル」を東京と浜松で開きました。
私も、人生一度の自分のリサイタルを開きました。
そして、永遠の命の物語、葉っぱのフレディ(100回公演)を息子と2人で始めました。

祖父母や母が亡くなり、やがて父の私が亡くなっても、その命は裕一の中で生き続けるのだということを息子に伝えるために、永遠の命の物語、葉っぱのフレディを「生涯演じ続ける」と決めて始めました。

また、息子と同じ世界で生きようと思い、私は障がい者就労支援の仕事に転職しました。

親子の二人三脚、そして親子それぞれの自立の手応えを、やっと少し感じることができました。
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障がいなら仕方ない。裕一のせいじゃない。これからは、その世界で生きて行けばよい。と親の私は思いました。でも裕一本人は、これまで健常者として一生懸命生きてきて、17歳で知的障がいを診断されたことを受け容れることができませんでした。

「パパが検査させたから、僕は障害者になってしまった」と息子は泣きました。

冒頭にお話しした岩本光弘さん、彼が失明した時にお母さんに言った言葉「どうして僕を生んだんだ。生まれて来なければ良かった」その言葉を思い出します。お母さんは岩本さんの太平洋横断成功と東京オリンピック聖火ランナーの晴れ姿を見て、先日他界されました。私も見倣いたいと思います。
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やがて息子は、世の中に対する疎外感を募らせパニックを起こしました。仕事を終えた私が夜帰宅すると、家の前の公園の駐車場で息子が「僕をどれだけ苦しめるんだ」と、周囲の人にあらん限りの声で叫び続けていました。駆け付けた警察官と役所の人が「息子さんもお父さんも、休む必要がありますね」と言ってつないでくれて、息子は入院しました。

私は3ヶ月間毎日、病院に息子を見舞いました。守られた個室で、親子2人だけの穏やかな時間を過ごしました。病院の玄関に咲いていたキンモクセイの枝を手折って息子の病室に差し入れました。
今でも、キンモクセイの季節になりその香りがすると、その時のことを思い出します。
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息子は、ピアノの本番演奏だけは続けました。入院中に初めて出演した静岡県立森林公園での音楽祭、それ以来今年で5年目、秋・春、連続9回目の出演が先月でした。森の中で毎回「葉っぱのフレディ」を親子で演じて来ました。

退院後、ある福祉施設に、ピアニストとして息子の居場所を作ってもらいました。自由に過ごすプレハブの小屋も与えられました。

でも、安心安全な病院から「社会」に出ると、社会の様々な刺激を受けて再び症状が悪化し、薬が増やされました。その副作用で手足や首が震え続け、唸り続けるようになりました。

施設に自分で通えなくなり、福祉送迎サービスを利用するために利用者登録をしました。すると、ピアニストとしての時給5000円が、工賃という名の時給150円に下がりました。今も息子は、レース用マスクのゴミ取りなど毎日真面目に作業し、工賃は少し上げて頂いています。
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そんな中で「親を亡くした子どものつどい」を始めました。私たち親子にとってはピアサポート、仲間と共に歩む当事者活動です。

レコーディングも開始しました。「このままでは、息子の人生が終わってしまう。始めないと始まらない」という思いでした。

息子の2度目の入退院後、息子を独りにする時間をなくすために私は、アルコールを断つことを決めました。毎朝・毎晩の施設への送迎も私がするようにしました。

浜松には、平均年齢76歳の男性合唱団「オーロラ」があります。私は息子と2人で入団し、一緒に歌わせてもらっています。母を亡くしてからも変わらずに大阪の祖父と過ごした息子は、合唱団のおじいさんたちに囲まれて穏やかな時間を過ごすことができます。
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遺族支援、障害のある人の支援、私にとってはすべてが当事者活動です。
妻と息子に教えられ、与えられた人生に感謝して、息子や世の中に還元していきたいと思います。

私は会社で、産業カウンセラー資格のジョブコーチとして、様々な障がいのある社員の面談を毎日、年間500回続けています。妻と息子から与えられた学びが、私の今の仕事を作りました。また逆に、息子の回復にはまだまだ時間がかかりますが、仕事で学んだスキルによって、回復の確信を持って息子を支えることもできています。

「継続は力」も、息子の障害から学ばせてもらったのだということに最近気づきました。知的障がいがあると、時間・空間的に遠いことに意識を向けるのが難しい分、身近なことや、同じことの繰り返しを大切にする面があります。そんな息子と暮らすことで私にも「継続は力」が自然と身についたのだと感謝しています。

息子が自分の障がいを受容できないことに私は悩みました。でも、障がいを受け容れなければいけないのは、息子ではなく私だったのだということにも、ようやく気がつきました。
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尾原和啓(おばらかずひろ)さんのプロセスエコノミーという本を読んで「物語が、大切な価値になる」ということを学びました。
息子と作ってきた3枚のCDがまさに、息子の大切な物語だと感じました。
ここで少し、そのCDをお聴き頂きたいと思います。私がプロデュースした作品です。
3枚のCDから選んだ4曲、それぞれのさわりをお聴き下さい。

・1曲目
CD第1作『One Night』。回復の兆しが見えない中「始めないと始まらない」と決意して録音されました。鮮烈な即興演奏で始まった幻美な世界は、12曲かけて心の奥底にそっと舞い降り、One Night(ある夜)の物語を閉じます。

・2曲目
CD第2作『Mom and Cherry Blossoms』。母の命日に録音されました。強い情念の演奏で始まります。

・3曲目
CD第2作で6曲かけてさまよい、その末に辿り着いた桃源郷。どこまでも穏やかな、すべてを超越した世界。もはや旋律がどんなに躍動しても葛藤も情念もない、澄み切った世界が広がります。

・4曲目
CD第3作『12 Years』。神さまになった母に見守られ導かれた12年間の歩みの結実として、13回忌に録音されました。

お聴き頂きありがとうございました。
「回復途上にあっても、音楽や心は深まる」その証しが刻まれた、3作の物語です。

今日最初にお話しした「生きるとは、自分の物語をつくること」、自分の物語を生きることを、これからも大切したいと思います。
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今日のお話をまとめさせて頂きます。
「利他の心が脳を活性化する」と脳科学者、岩崎一郎先生は言われます。私は息子のために生きることで力が湧きました。それが自分の生き甲斐になり、自分にも様々な恩恵が与えられました。

また、幸福学の第1人者である慶應大学の前野隆司先生は「多様なつながりを持つ人は幸せである」と言われます。私は息子のために、息子と共に、出会いとつながりを広げてきました。

それらを通じて、多くの友愛や思いやりに支えらました。そのキーワードは「愛情、信頼、つながり」そして「自分の人生の物語づくり」です。

私の専門である産業カウンセリングも同じです。カウンセラーとの信頼関係によって、クライアントが自分の力で回復することを大切にします。レジリエンス(自己回復力)は愛情、信頼、つながり、物語に支えられると考えます。

今日最初にお話しした「岩本さんはなぜ助かったのか?」岩本さんが絶望して死のうとした時に「叔父さんが夢に現れて助けた」とはどういうことでしょうか。叔父さんは生前、岩本さんをとても大切に思い、行く末を心配されていたと聞きます。生前の叔父さんの岩本さんへの愛情、岩本さんと叔父さんの信頼関係が、岩本さんの夢に叔父さんを登場させ助けたのだと、私は思います。
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私は息子を幸せにするために、永遠の命の物語、葉っぱのフレディを、息子のピアノと私の語りで演じ続けています。そしてもう一つ、あるシャンソンに私が作ったオリジナルの語りをつけて、息子のピアノ伴奏で演じています。

今日の最後にお聴き下さい。ジャックブレルの「泣く友を見る」ゆぱバージョンです。

「泣く友を見る」

誰かが泣いている
街のどこかで
Bien sûr, le temps qui va trop vite. Ces métros remplis de noyés. La vérité qui nous évite. Mais, mais voir un ami pleurer!

お母さん、素敵なお母さんだったよ。精一杯生きて、僕の事をとっても大切にしてくれて。そして今、お母さんは神様になって僕を見守ってくれている。お陰で僕は毎日希望を持って暮らせてるよ。ほんとにありがとう。

お父さん、障がいって何?障がいは誰かが持ってるんじゃなくって、人と人との間に起こるって聞いたよ。だとしたらさあ、みんながみんなに優しくなればいいんじゃないの?そしたら、障がい者なんて言い方、なくなるんじゃないのかなあ?

お父さん、街にはいろんな人がいるよね。なのにみんな同じじゃなきゃいけないの?こうすべきだとか、しちゃいけないとか。僕は僕のままでいたい。みんなその人のままでいいんじゃないのかなあ。

お母さんが死んじゃった事よりも、お母さんが精いっぱい生きた事を僕は大切にしたい。僕を産んでくれて、育ててくれて、ありがとう。僕は確かに、お母さんから命のバトンタッチを受けたよ。これからも僕を、見守っていてね。

凍える手で擦るマッチの炎
その灯火の中に映る希望
ありったけのマッチを擦りながら、少女は母のもとへ召された

Bien sûr, le temps qui va trop vite. Ces métros remplis de noyés. La vérité qui nous évite. Mais, mais voir un ami pleurer!

以上で私のお話を終わります。ご静聴ありがとうございました。

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~後日談~

上記講演をアメリカ・サンディエゴ在住の岩本光弘さんも聞いてくれていた。偶然翌日のGR大学講演者が決まっていなかったので主催者がその場で岩本さんにオファー。岩本さんは「ゆぱさんの話を受けて務めさせてもらいます」と即答された。

翌日、私もスピーカーセクションに上げられて岩本さんのお話を伺った。岩本さんのお話を改めて伺い、気づいたことがあった。私は前日、失明に絶望して死のうとした岩本さんを救ったのは、岩本さんへの叔父さんの愛情と、岩本さんと叔父さんの信頼関係だと思うと話した。でも岩本さんがそれ以来、数々の困難を乗り越えて来た理由はそれだけではないことに気づいた。

失明して歯ブラシに歯磨き粉をつけることさえ自分でできなくなった岩本さんは、繰り返し訓練することでできるようになることを学んだ。少なくとも私とは比べものにならないくらい多くのトライ&エラーを日々積み重ねることによって、岩本さんはどんな困難も乗り越える力を身につけて来られたのだと気づいた。

多くの驚きと、強い感動、深い気づきを与えて下さる岩本光弘さんに、あらためて感謝したい。


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