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三条市(旧下田村)の百姓一揆義民慰霊塔

百姓一揆義民慰霊塔

三条市(旧下田村)葎谷(むぐらだに)にある江戸時代後期に起きた百姓一揆の首謀者として処刑された義民の慰霊塔です。

一揆の概要

現地の案内板に少し加筆し、一揆の概要を記します。

<一揆の発生>
文化11年(1814年)4月3日、葎谷を中心とした牛野尾谷(うしのおだに)から発生し、下田郷全域さらに七谷(ななたに=現・加茂市)、見附など村松藩全体に広がりました。おもな村役人宅の打ち壊しや強訴(ごうそ=一揆の際に集団で庄屋や村役人のもとに押し寄せ、要求を伝えること)を続け、その勢いは村松城下まで迫りました。
<一揆の背景>
藩財政悪化の立て直し策として出した年貢増、諸税の新設などで、農民の負担が極度に重くなりました。また頻繁に起こる旱魃(かんばつ=夏季の日照りによる極端な水不足)や凶作にも、藩は救民の策を行っていません。このため、困窮の度合いは山間地に行くほど深刻でした。
<一揆の結末>
4月5日、一揆は農民の代表者と藩の重臣との間で終結し、農民側の要求はある程度受け入れられた形で、各戸に米が4斗まで配給されました。
一方で、4月下旬より一揆の首謀者の探索が行われ、関係者の逮捕と処分が下されました。特に重罪とされたのは、次の2名でした。
  葎谷村の七蔵  家内追放、家財没収の上、斬首
  葎谷村の徳次郎 家内追放の上、斬首
一揆から約1年後の文化12年5月16日に両名の刑が執行され、両人の首は村松の刑場から運ばれて、村の入り口に7日間晒されました。
<慰霊碑の建立>
昭和14年(1939年)、地元有力者たちの発議により、広く資金を募って慰霊塔が完成しました。
以降、義民が斬首になった5月16日に毎年慰霊祭が斎行され、現在も続いています。
なお碑名の三義民のうち、忠右衛門は実在せず、荒沢村の肝煎を務めていた久右衛門だったと考えられています。久右衛門は村の指導者的立場でしたが、一揆に協力的だったとされ、追放に処せられました。
    平成23年 (熊野神社)氏子一同、下田郷文化財調査研究会

<ちょっぴり解説を>
村松藩は村松・下田・七谷・見附を支配したで、寛永16年(1639年)に立藩しました。藩主は代々堀氏です。
石高は3万石でしたが、領地の多くは山間地で、新田開発を行っても収穫は少なく、実高は4万石程度だったようです。たびたび藩政改革・財政改革が行われましたが、藩主が若くして亡くなって改革が頓挫するなどして、効果は上がらなかったようです。
この百姓一揆は第8代藩主・堀直庸の治世下で起きました。藩政を壟断していた家老一派が農民に対して過酷な収奪を行っており、その挙げ句の一揆だったようです。
一揆の首謀者の処刑については、藩主の直庸公も涙で処断を決定したとの言い伝えも残っています。
家老一派がその後どうなったのかも気になるところです。

三条市(旧下田村)葎谷 熊野神社 社の右側にある石碑が慰霊塔


百姓一揆義民慰霊塔


碑文の上部

碑文の上部には「義民頌徳 葎谷 徳次郎君 葎谷 七蔵君 荒澤 忠右衛門君」と記されています。


碑文の下部

碑文の下部には「慰霊塔」の文字の他に、「陸軍大将 鈴木荘六」と揮毫(きごう)者の名が刻まれています。

揮毫者・鈴木荘六について

揮毫者の鈴木荘六(1865.3.16-1940.2.20)は三条市二ノ町出身の教育者・軍人で、三条尋常小学校(のちの三条小学校=現在は裏館小学校に統合)を卒業した後、下越地方の代用教員を務めました。その後、新潟師範学校 次いで陸軍教導団に入学し、軍人となりました。その後、陸軍大学校で学び、義和団の乱に従軍、日露戦争やシベリア出兵に参加するなど戦歴を重ねました。大阪の第四師団長、台湾軍司令官、陸軍大将、朝鮮軍司令官、陸軍参謀総長などを歴任、退役後は枢密顧問官を務めました。退役後は故郷の三条市に戻り、帝国在郷軍人会会長、大日本武徳会会長を務めました。
書にすぐれ、全国の公共施設や学校に多くの揮毫を残しています。
また、新潟県や三条市の公共事業推進に多大な貢献をしています。
鈴木荘六が退役後に三条市北新保に構えた居館は、旅館「三観荘」として現存しています。  (Wikipediaより)


慰霊塔の裏側

慰霊塔の裏側には、細かい文字で慰霊塔建立の趣旨や賛同者の名前が刻まれています。

慰霊塔の前には「義民慰霊 二百年祭記念」の碑が建立されています

「義民慰霊 二百年祭記念」の碑

記念碑の裏には、村松藩百姓一揆から200年の年に、斬首に処せられた七蔵と徳次郎のことを顕彰するために記念碑を建立した旨と、実行委員の氏名が刻まれています。平成26年(2014年)5月の建立です。

記念碑裏面の碑文

佐倉惣五郎と「ベロ出しチョンマ」

百姓一揆にまつわる義民と言えば、千葉県佐倉市の佐倉惣五郎の伝説と斎藤隆介の創作童話「ベロ出しチョンマ」を思い出します。
そんなに戸数が多くない山村で、江戸時代の義民が200年以上にわたって連綿と思慕され続けていることに、里人の義民に寄せる思いの強さがしのばれます。

<2023年12月2日 訪問>

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