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長岡市(旧中之島町)西所の気になる六地蔵(?)と石仏(?)

去年(2023年)の12月31日。元旦の混雑を避けるため、越後一宮である弥彦神社に一日早く年始参りに行きました。弥彦神社の元旦の混雑は本当にすごいんです。

弥彦神社に向かう途中、長岡市旧中之島町の中西橋をわたったところに気になる空き地を見つけました。
「え?今のひょっとして葬送施設?」と思いましたが、車を運転しているのは私ではなかったため、止めてほしいとも言えず(火葬場巡りをしていることは家族にも内緒)、気になったまま大みそかの年始参りに行きました。

気になる空き地を訪問

明けて2024年(令和6)の1月2日、新潟県中越地方にも能登半島地震の余震が襲う中、自分で車を運転して、気になる空き地の再確認に行きました。

見附市の三林町と長岡市(旧中之島町)の中西を結ぶ中西橋を渡ってすぐの所に、あの気になる空き地がありました。
この場所は、中西橋のほぼたもとなので「中西」という集落かと思っていたら、道路地図で確認したところ、「西所(さいしょ)」という地区だと分かりました。

道路(県道)からの眺め これは施設の後ろ側になります
正面

道路からわずか入った細道に続いて、コンクリートタイルの上を歩いて施設に向かい合うようになっています。
コンクリート製の家形の覆いを囲んで、雪よけのカバーがかぶせてありますが、六地蔵らしき石仏が並んでいます。

家形の覆いと三体の石仏

家形の覆いの中には、三体の石仏と千羽鶴が祀られています。近くの人たちによって、ていねいに祀られ、手入れがされているようです。

左ななめから
右ななめから
空き地全体の様子

空き地の橋側に3本の立木があります。
周りは水田ですが、空き地全体は周囲より少しだけ高くなっています。
火葬場跡のような、そうでないような・・・・

空き地、道路、橋の位置関係

空き地の脇を今来た県道が通っており、道路の向こうの高くなっている場所が中西橋です。
この空き地は火葬場跡なのか、なにかしらの地域の歴史の記念の碑なのか、それとも集落の入り口にある六地蔵なのか・・・・。謎のまま空き地を後にしました。

国土地理院の空中写真から

家に帰ってから国土地理院の空中写真を調べてみました。

1947年9月24日 アメリカ軍撮影

1947年(昭和22)9月24日に、当時日本を占領していたアメリカ軍が撮影した空中写真です。
写真中央を流れている川は、見附市山吉町火葬場跡のところでも出てきた刈谷田川(かりやた・がわ)です。
川の流路や集落の家の並びが今とは違っているので自信がないですが、円内がこの空き地の場所と推測しました。
何かの小さな施設があるのが分かります。

1962年5月7日撮影

1962年(昭和37)5月7日撮影の空中写真では、道路は今と同じ走りになっています。
写真の解像度が低いのではっきりと断定は出来ませんが、気になる空き地には、何かの小さな施設があるようにも見えます。あの家形の覆いかもしれません。
中西橋は架け替え工事中のようで、橋がありません。

1975年11月2日撮影

1975年(昭和50)11月2日撮影の空中写真を見ると、気になる空き地は更地のように見えます。

1991年5月5日撮影

1991年(平成3)5月5日撮影の空中写真を見ると、気になる空き地は完全に更地のように見えます。

2004年10月28日撮影

2004年(平成16)10月28日撮影の空中写真を見ると、気になる空き地の場所に何か小さな施設があることが分かります。拡大してみると・・・・

2004年10月28日撮影の写真を拡大

空き地に、あの家形の覆いと思われる施設が建っているのが写っています。コンクリートタイルで敷かれた進入路も確認できます。

空中写真を時系列で確認しながら調べてみると、この施設は1992年(平成4)以降に建てられたものらしいと推測できます。それでは、どこかから移転された施設なのでしょうか?どこから?何のために?
結局、この施設については、詳細は分かりませんでした。現地の詳しい人に聞くか、詳しい郷土資料を調べてみるのがよいようです。

<2024年1月2日訪問>

おまけ・・・・と言ってはわるいけど

空き地への進入路にねこがいました。ついつい写真を撮りました。

首輪がないので野良のようですが。近くを通っても逃げようとしない、人慣れしたネコでした。
空き地のあちこちを写真に撮っているうちに、どこかに行ったようでした。

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