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見附市斎場 【改訂版】

見附市斎場の建設年が判明しました。
建設年を加筆し、内容にも若干の再構成を加えた改訂版です。

見附市斎場 概要

現在稼働中の見附市斎場です。1983年(昭和58年)に建設されました(見附市公共施設個別施設計画)。稼働が始まったのも、この年からと思われます。
所在地は見附市本町3丁目。見附市街地東方の小高い丘陵地の中腹にあります。近くには見附市運動公園や見附中学校、太平森林公園などの公共施設があります。

見附市斎場 全景

あまり大きな施設ではなく、こぢんまりとしています。正面エントランスを入るとすぐに炉前室で、そのお国か走路が並んでいた記憶があります。炉前室の左が収骨室でした。ご遺族の控え室等はありませんでした。
故人が炉に入った後、ご遺族はいったん家に戻るか食事をするかして、2時間ほど後に斎場に戻って、収骨をします。
建設が1983年=昭和後期だったことを考えると、当時としてはモダンな火葬場だったことと思います。
建物の外壁もしぶい茶色で、周囲の木々になじんでいます。

見附市斎場 入り口側から

見附市斎場の入り口からの撮影です。前の全景写真とあまり変わらない角度ですが、建物裏手に小さな煙突または排気筒があるのが確認できます。でも、ここは無煙の斎場です。
1983年の建築当時から無煙式火葬場だったとしたら、当時の最先端の火葬場だったのではないでしょうか。

国土地理院の空中写真から

国土地理院の空中写真から、見附市斎場周辺の土地利用の変遷を調べてみます。
見附市斎場のある丘陵の西側の麓には、智徳寺と極楽寺という2つのお寺があります。いまの見附市斎場がある場所は、もとはこの2つのお寺に接した集落火葬場だったのでは?と思いました。でも、国土地理院の1965年以前の古い航空写真を調べてみましたが、確認できませんでした。その可能性がある、とだけしておきましょう。

1975年10月27日撮影

1975年(昭和50)10月27日撮影の空中写真です。
見附市斎場の周辺には見附市陸上競技場や野球場、テニスコート、見附中学校などの重要な公共施設がありますが、この空中写真を見ると、すでにそれらの施設の工事が始まっています。
現在見附市斎場があるあたりもすでに整地されています。これ以前にこの地に斎場を建設することが決定し、工事が進んでいたことが分かります。
ちなみにこの写真が撮影される10か月前(1974年12月)には、新潟県が生んだ(今のところ)ただ一人の総理大臣・田中角栄が内閣総辞職をしています。
そして、この写真が撮影された9か月後の1976年(昭和51)7月27日、ロッキード事件により、田中角栄が逮捕されています。

1986年5月27日撮影

次は、1986年(昭和61)5月27日撮影の写真です。
11年前には更地だった見附市斎場建設予定地にはすでに建物が建っています。築3年が経過しているので、すでに供用されていたと考えてよいでしょう。
ですが、陸上競技場をはじめとする見附市運動公園や見附中学校などの公共施設は、まだ建設されていません。
なお、この前年1985年2月には田中角栄元首相が脳梗塞で倒れて言葉を失い、手足も不自由になり、政治活動がほぼ不可能になりました。
同じ1985年。10月2日に田中角栄が建設に力を入れた関越自動車道が全線開通し、上越新幹線も念願の上野駅乗り入れ(同年3月14日)を果たしています。

見附市斎場の歴史を田中角栄を絡めながら長々と振り返ったのは、見附市のようなそんなに大きくもない市に立派な運動公園や(昭和後期当時は)モダンな校舎の学校、わりと立派な斎場が早々とそろったのは、地元の人たちの努力ももちろんですが、やはり田中角栄の力も大きかったと思うからです。
私の生まれ育ったのは鳥取県鳥取市ですが、大学進学のため新潟県上越市に来たとき、雪の深さにびっくりしたのと同じくらい、道路が立派なのに驚きましたからね。自分で自動車を運転するようになってからは、かなりの山奥の村でも舗装された二車線道路がきちんと通っていることにまた驚きましたから。
これは、鳥取の人たちの努力が足りないと言っているのではありません。ただ鳥取からは、田中角栄のように名前を聞けば誰でも知っているような、国政を左右できるような大政治家が出ていないのも事実です。

今、政治家による地元への利益誘導が強く批判されていますが、田中角栄が権力を握る前、昭和中期頃までの新潟県は、僻地の村で冬場に病人が出ると、豪雪のため、あるいは道路事情の悪さから、お年寄りや子どもが医者にかかることができずに命を失うということが、わりと普通にあったということです。
また、同じく昭和の中頃までは、貧しさのために冬になると父ちゃんやじいちゃんやにいちゃんが都会に出稼ぎに行ってしまい、母ちゃんとばあちゃんと子どもだけで家を守り、時には出稼ぎに行った一家の大黒柱がそのまま帰ってこなかった、ということもあったそうです。
さらに、子どもが家が貧しいために進学できず、中学校を卒業したらそのまま働く、ということも普通にあったそうです。田中角栄自身も、高等小学校(今の中学校に相当)を卒業したら、進学せずに働いています。
田中角栄が新潟の道路建設や生活インフラの整備、企業の誘致に力を入れたのは、豪雪や道路事情の悪さに泣かされてきた新潟県を何とかしたいという思いがあったのは、間違いないと思います。
生活インフラの整備やライフラインの充実、教育の充実は、絶対に必要と思うのです。

最後に田中角栄を絡めてもう一つ。
見附市斎場が建設されたのが1983年(昭和58)ということは記しましたが、この年の10月に田中角栄内閣総辞職のきっかけとなり、田中角栄逮捕の要因となったロッキード事件の1審判決があり、田中角栄に懲役4年・追徴金5億円の実刑判決が下りました。
この判決で政界が大揺れに揺れる中、衆議院の解散総選挙(第37回)が行われ、田中角栄は22万票という驚異的な得票数で当選しました。
見附市は当時、田中角栄が立候補していた「新潟3区(旧)」でした(他は長岡市・栃尾市・柏崎市・三条市・加茂市・小千谷市・古志郡・三島郡・刈羽郡・南蒲原郡・南魚沼郡・北魚沼郡=郡市の呼称は1993年当時のもの)。見附の選挙民の多くも、実刑判決が下って窮地の田中角栄に、衆院選での圧倒的勝利をもたらすという形で恩を返したのでしょう。

そして、22万票という圧倒的勝利を飾ってからわずか1年2か月後の85年2月、田中角栄は脳梗塞で倒れて言葉と手足の自由を失い、政治活動が不可能になりました。

かつて田中角栄は自分の子分たちに、「めでたい会は(出席しなくて)いいんだ。葬式には何を措いても参列しろ!」と教えていたといいます。
「所詮は票集め」「選挙狙い」という批判の声があることも承知していますが、いくつかの葬儀に参列し、家族の葬儀を経験したいま、これは心に沁みる言葉です。

<2023年11月23日 訪問>

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