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見附市斎場

見附市斎場 概要

現在稼働中の見附市斎場です。所在地は見附市本町3丁目。見附市街地東方の小高い丘陵地の中腹にあります。近くには見附市運動公園や見附中学校などの公共施設があります。


見附市斎場 全景

あまり大きな施設ではなく、こぢんまりとしています。正面エントランスを入るとすぐに炉前室だった記憶があります。炉前室の左が収骨室でした。ご遺族の控え室等はありませんでした。
故人が炉に入った後、ご遺族はいったん家に戻るか食事をするかして、2時間ほど後に斎場に戻って、収骨をします。


見附市斎場 入り口から

見附市斎場の入り口からの撮影です。前の全景写真とあまり変わらない角度ですが、建物裏手に小さな煙突があるのが確認できます。でも、ここは無煙の斎場です。

国土地理院の空中写真からいつ頃から建物があるかを調べてみます。

1975年10月27日撮影

見附市斎場の周辺には見附市陸上競技場や野球場、テニスコート、見附中学校などの重要な公共施設がありますが、1975年(昭和50)10月27日撮影の空中写真を見ると、すでにそれらの施設の工事が始まっています。
そして、現在見附市斎場があるあたりもすでに整地されています。これ以前にこの地に斎場を建設することが決定し、工事が進んでいたことが分かります。
ちなみにこの写真が撮影される10か月前(1974年12月)には、新潟県が生んだ(今のところ)ただ一人の総理大臣・田中角栄が内閣総辞職をしています。


1986年5月27日撮影

1986年(昭和61)5月27日撮影の写真を見ると、11年前には更地だった見附市斎場建設予定地にはすでに建物が建っています。供用されていたかどうかは分かりませんが、この時には見附市斎場は完成またはほぼ完成していたようです。
※追記:「見附市公共施設個別施設計画」という資料を調べて分かりました。見附市斎場は1983年(昭和58)の建築です。この空中写真が撮影された1986年には築3年が経過しています。すでに供用されていたと考えてよいでしょう。
ですが、陸上競技場をはじめとする見附市運動公園や見附中学校は、まだ建設されていません。
なお、この前年1985年2月には田中角栄元首相が脳梗塞で倒れて言葉を失い、手足も不自由になり、政治活動がほぼ不可能になりました。
同じ1985年、田中角栄が建設に力を入れた関越自動車道が全線開通し、上越新幹線も念願の上野駅乗り入れを果たしています。

見附市斎場の歴史を田中角栄を絡めながら長々と振り返ったのは、見附市のようなそんなに大きくもない市に立派な運動公園や(昭和後期当時は)モダンな校舎の学校、わりと立派な斎場が早々とそろったのは、地元の人たちの努力ももちろんですが、やはり田中角栄の力も大きかったと思うからです。
私の生まれ育ったのは鳥取県鳥取市ですが、大学進学のため新潟県上越市に来たとき、雪の深さにびっくりしたのと同じくらい、道路が立派なのに驚きましたからね。自分で自動車を運転するようになってからは、かなりの山奥の村でも舗装された二車線道路がきちんと通っていることにまた驚きましたから。これは、鳥取の人たちの努力が足りないと言っているのではありません。ただ鳥取からは、田中角栄のように名前を聞けば誰でも知っているような、国政を左右するような大政治家が出ていないのも事実です。

今、政治家による地元への利益誘導が強く批判されていますが、田中角栄が権力を握る前、昭和中期頃までの新潟県は、僻地の村で冬場に病人が出ると、豪雪のため、あるいは道路事情の悪さから、お年寄りや子どもが医者にかかることができずに命を失うということが、わりと普通にあったということですから。
田中角栄が新潟の道路建設に力を入れたのは、豪雪や道路事情の悪さに泣かされてきた新潟県を何とかしたいという思いがあったのは、間違いないと思います。
生活インフラの整備やライフラインの充実は、絶対に必要と思うのです。

<2023年11月23日 訪問>

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