身辺整理

この文章は2023/8/29に書いたらしいです。
とんでもなく家庭事情の重い話が続きますので苦手な方はここで引き返しましょうね。
なんで公開する気になったかはなんとなくで...
さて、供養。





どうしようもなく苦しい時、あなたはなにをしますか。

明け方四時、一番地獄の時間だと思っています。

さて、身の上話を、すこし。

家族が嫌いでした。母が、嫌いでした。でも、好きでした。きれいな思い出はいくつもあって、思い出す度に、いい母親だったななんて思ったり。
でも、嫌いでした。
わたしの一番古い記憶は、祖父母宅の和室で、母と二人きりでいて、「ママとパパ、どっちと一緒に暮らしたい?」と、泣きながら問われた記憶。「ママ」って答えた気がします。
当時、3歳。
この記憶だけは一生忘れない気がします。
そこから、両親は離婚し、母との二人暮らしが始まりました。
家賃8万の2LDK。環境はいいですね。母はきれい好きでしたし。
10年ほど過ごしました。中学3年まで。こんだけ長く住んでれば家での記憶ぐらいしっかりあってもいいと思うんですけど、嫌な記憶ばっかり覚えています。
母が「死んでやる」と、包丁を持ち出したこと。
煙草を吸う本数が増えること。
ライターの音が穏やかじゃないことに怯えていたこと。
何度も、夏だろうと冬だろうと家の外に放り出されたこと。
何度も、「もういらない」と、家を出て行かれたこと。
何度も床を引きずられました。足がフローリングとすれて きゅ、となる音を今でも覚えています。
何度も物を投げられました。
灰皿は特別痛かったです。
割れた灰皿で怪我したことを覚えています。
泣けば叩かれました。
泣けば、顔を洗って来いと言われ、泣きたくないのに涙が止まらないので、真冬に冷水で顔を洗い、何度も自分で顔をたたいていました。

これは今でも課題ですが、どうして怒られてる時に泣いてしまうんでしょうか。泣いたら余計困るし、会話にならないじゃないですか。
なんで、怒られたら泣くんですか?

わたしは、本が好きでした。
何冊、破られ捨てられたでしょうか。多すぎて取り戻せていません。

基本的に外出禁止でした。だから、友人がほぼいません。

何度、必死で作ったご飯が皿ごとシンクに捨てられているのを見たでしょうか。

されたこと一つ一つ、すべて覚えています。

当時、母は働いていて私は家で一人で、おなかがすいて?過食で?勝手に家にあるものを食べていたんです。
毎回気づかれては怒られて。
なんであれ、やめられなかったんですかね。やめれば怒られなくて済んだのに。やめられなかったんですね。
過食は今でも続いてます。大量に食品を買って、一日で消費。
これがあるから痩せられないんです。
まあ、一人暮らししてから減ってはきましたが。ストレス値が上がると過食傾向があります。本当に嫌。お金もかかるし。
で、この、当時は「ぬすみぐい」と言われていましたが、これをやめられずに怒られたある日、「ぬすみぐいは泥棒で、犯罪だから本当なら捕まるんだよ。」と言われました。小学生のわたしはこれを鵜呑みにし、次に家の食料に手を出してしまったあと、母が帰ってくる前に交番に行ったのを覚えています。
交番で何を話したかは覚えてませんが、とにかくそのまま母を呼ばれて連れて帰られました。家に帰るまでは優しくて、なんだかうれしかったのですが、家に着いた瞬間いつも通り怒られました。

その後、「あんたのせいで児相から電話かかってきて困る」と母に言われましたね。
そのころに保護されてればよかったのに。

長いですね。もういいか。ちょっと飛ばします。なんやかんやあって祖父母宅で一緒に暮らすことになり、ネズミの出る最悪な部屋で暮らしたりとか(ネズミは本当に無理になりました)、祖母が認知症がひどくなり介護の手伝いとか、家でご飯が出されなくなりバイトを始める、とか。
さ、これで高校三年生まできました。

高校三年生、不登校になっていました。このころからなんだか朝がしんどくて、でもたたき起こされるから外には出て、電車に乗れなくて駅で3時間も4時間も過ごしていたのを覚えています。
母にばれたら終わる、と、必死でした。GPSをつけられていたので、無理やり切っていたり、スマホを学校において来たり。
このころが一番希死念慮が強かったです。死ぬなら海がいいな、と、学校がある日に熱海まで一人で行きました。死ぬなら有り金すべて使おう、と熱海の海(サンビーチ)で3時間くらい座り込んでました。釣りに来てたおじちゃんに旅行?写真とってやろうか!と言われたのを覚えています。ありがとうおじちゃん。撮ってもらっとけばよかったな。その日がバイトのシフトで、初めて当欠しました。もう死ぬからいいか!って思って。
死ねませんでした。
帰り道、虚しくて、しんどくて仕方ありませんでした。

飛ばします。受験はさらっと終わりました。AO入試です。

高校三年生12月。ここ1年くらいずっとスクールカウンセラーのもとに通っていたのですが、そろそろ限界だな、と思い家を出る決意をします。
当時の彼氏にだけ伝えていました。
大事なものを、捨てられたくないものを彼に預けて、スクールカウンセラーのひとはいなかったので保健室に行き、「もう、限界なので家を出ようと思うんです」って。
いろんなことを話しました。そのころの担任が本当にいい人で良かった。
教頭先生も来ました。一回帰る手はないの?って言われました。3者面談、する?って言われました。書置きもして出ていきましたし、帰るなんてとてもじゃないけどできないので、拒否しました。
わたしはそのとき、シェルターにいこうとしていたんです。遠い、ところに。
教頭先生にそれは、ととめられて、児童相談所に保護されました。

きっかけ思い出しました。18歳になったら保護されなくなるということに気が付いたからでした。

担任の先生が車で児相まで送り届けてくれたのを覚えています。もう20:00とかになっていて、母からの着信がずっとなっていたことを覚えています。
先生、出なくていいって言ってくれてありがとう。あの言葉が救いでした。

さ、こっから1か月の話はしません。しちゃいけませんし。

中々母との面談、交渉が進まず、施設に移動できなかったな。
心理検査の結果もらってないな。
面談で会うたびに母がやつれていってて、帰った方がいいのかな、って心が何度揺らいだか。

ま、紆余曲折あって施設に入ることとなりました。児童福祉施設ね。
自分の荷物を引き取るために実家に一回帰ったんですけど、そのときに言われたんです。「本当にごめんなさい」って。泣きながら。何も思えませんでした。どうせわかってないって、思ってました。
たぶんそういう目をしてしまったのでしょう。ひどく傷ついた顔を覚えています。

その謝罪が、最期の言葉でした。

母はほどなく、自死しました。ここからは、もうしんどいので、かけません。

わたしはいつになったら、身の上話を自虐として使って相手を困らせるのをやめられるんでしょうか。いつも迷惑かけて、ごめんなさい。

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