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ハーデンベルギア

※このnoteは「改訂:夢、酔ひ 華、香る」の番外編SSとなります。


あの日はたしか、雨が降っていた。

それ以外は特筆すべきことはない何気ない一日だったと思う。泥濘んだ地面を踏みしめながら私達......宮内家の人間しか知らない小道を進む。慣れてはいても、撥ねる土の感触は嫌なものだ。
さて今日は何をしようか、身重の妻はどうしているだろうか、などと考えていたとき。ぴちゃり、足音がしたのだ。ここは山奥だ。鼠や栗鼠の類いはよく見かけるが今は冬。こんな寒い時期にこんなところにいる動物ましてや人間なんてそういない。
音のした方を見れば、そこに居たのは小さな子どもだった。軽く握れば折れてしまいそうなほどに痩せ細った小さな子。
「どうしたんだい。」
なるべく威圧感を出さぬよう、柔らかく、姿勢を低く。子供に相対したことなんてないもんだから扱い方がわからない。暫く返答を待つも子どもの口は結ばれたままだ。
「どこから来たんだい?おうちの場所、わかるかい。」
怯えた目をしている。まるで野生の子犬のようだ。沈黙ののち、ゆっくり子どもは首を振った。
「わからないのか。名前は?」
これにも否定を示した。名前すらわからない子ども、しかもあまり生活環境は良くなさそうだ。
「喋れるかい。ゆっくりでいいから、なにか...」
雨も強くなり、森の中と言えど木々が守ってはくれないほどになってきた。当たり前のようにこの子は傘を持っていないように見えたから、傘を傾けてやる。
喋ろうとしているのか、時折息を呑む音が聞こえる。遮らないように、ただ待つ。
「いらない、って。」
喋ることができる事実に安堵した。意思疎通はできるみたいだ。
「あんたは、いらないこ、かえってこないでって、いってた。」
この子はその言葉の意味を理解しているのだろうか。もし理解してしまっているならなんと残酷な。薄々勘付いてはいた。こんな山にひとり、ボロボロの着物に痩せ細った身体のせいでまるで意味を成していない帯。ましてや裸足だ。これでただの迷子だと仮定するには無理があるだろう。
「そうか。なあ、お嬢ちゃん...でいいのかな。もう少し行ったところにうちがあるから、そこまで来ないかい。これから雨も強くなるだろうし...」
不安な顔が見える。困ったようにこっちを見たり、逸らしたり。ここに置いていく選択肢なんてないか、と思い切って抱き上げた。持ち帰ってきた書類より軽くて驚愕したっけか。

そう、千代を拾ったのはそんな雨の日だった。





ぱちぱち、ばちばち、ごうごう。


懐かしい出来事を思い出していた。
一体どれくらい意識を失っていたのだろう。咄嗟に庇った娘が、私の下で涙を浮かべている。
ああ、そんな顔、しないでおくれ。妻に似た綺麗な顔の娘。楓、楓。大丈夫だ。大丈夫だよ。ごめんな。巻き込んで。私のせいできみはきっと、今後辛い思いを。
などと想いが溢れてくる。背中は熱く、衣服に燃え移る感触がある。でももう、足が挟まれていて動けないのだ。
「大丈夫。きっとおまえは助かる。なあ、楓。椿を、椿を頼んだぞ。千代も、」
ガタン、と焼けた木材が倒れてくる。ああ、手が動かせる間に楓を離しておいて良かった。あのままなら2人とも潰れていただろう。
「お父様...ッ!」
悲痛な叫び声が聞こえる。駄目だろう、そんなに喉を開いたら、喉が焼けてしまうよ。

どうか、どうか、3人が今後幸せに。意識がなくなるその時まで、そんなことを考えていた。





貴方のことをお慕いしておりました。ずっと、ずっと。あなたに命を救ってもらったあの日から、ずっと。まだ恋と判る前から、貴方のことをお慕いしておりました。
出会った日、雨に濡れた私を暖めようと外套を被せてくれたこと。「大丈夫だ」と、「怖くない」と、必死で慰めてくれたこと。貴方の体温と柔らかな声を今でも覚えております。
女中という居場所をくれた事、感謝しております。ただ養子として迎え入れられていたら、きっと劣等感に押し潰されていましたもの。楓お嬢様は完璧なお方ですから。

ねえ、譲さん。わたし、わたしね。譲さんの「大丈夫」がいちばん安心するの。譲さんの腕の中がいちばんあったかいの。
ねえ、譲さん。わたしに宝物をくれてありがとう。とっても不安で仕方なかったけれど、ずっと、ずっとこんなにも可愛いの。わたしなりに大事にしてる。ねえ、ちゃんと子育て出来てるかな。
ねえ、譲さん。これで、いいんだよね?


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