2024/8/31 -藍月なくる2ndライブ「鏡像崇拝」

※藍月なくる2ndライブ「鏡像崇拝」の個人的解釈散文殴り書きです。真夜中眠気と戦いながら書けるところまで…と書いています

ヤバすぎ このライブ これをわたしは作品と呼びたい 作品と呼ぶことすら罪 ウワ~愚かなオタク!

全て共犯でしたね。お揃いの悪夢でずうっといっしょ………?(ちがう)


キービジュアル、
林檎…禁断の果実
蛇…原罪の象徴/禁断の果実を食べるよう唆したもの
蝶…ライブMC内で言っていたように死の象徴
青薔薇…天然物ではなく作り物としての概念
額縁…飾り/作品を閉じ込めるもの

だと解釈しました

キービジュの中に閉じ込められている現在ビジュ藍月なくるの助けを求めるような腕、鏡合わせのようにいる黒髪の藍月なくる(=質量)
玉座へ座らない、目の中に蝶を飼う藍月なくる

ア~~~~~~~~~~~~~~~…………伏線はちりばめられていましたね

表題曲を先に出したのはもう手遅れだったということですか?そう 我々に救うことなどできないのだから。教徒が教祖を救うなぞ考えもしないことですから。
ただ、ただ、偶像・妄想を抱き、勝手に解釈を進めるしかできない。
藍月なくるは神ではない。神ではないからこそ、崇め奉られる己(=藍月なくる)は鏡像だったのではないでしょうか。鏡像”を”崇拝”する”ではなく鏡像”が”崇拝”される”というあくまで藍月なくる視点の話とも取れました。

藍月なくるって”そう”だよね、藍月なくるって”そういう”のが似合うよね、というような教徒側の押し付け、偶像崇拝を懲り固めたような藍月なくるを作り上げてしまいました。私たちが…………
人間はなんて愚かなものなのでしょう………

「mirror」のMVで男の子と藍月なくるが共に穢れているの、あれは偶像崇拝をしてしまったオタクたちと鏡像になることを願った藍月なくるが共犯であることを示唆していたりするのではないでしょうか。原罪において、禁断の果実を食すよう唆した蛇のみが悪いわけではないですからね、ということ。
共に塗れてくれるのか、藍月なくる……………(限界化)

藍月なくるが活動者である以上、我々には概念さんもイラストも曲もそして質量さん/中の人である人間をも藍月なくると呼称することしかできない。

ずっと不安でした。今回のライブ。
藍月なくるが言葉を発する度に不安になる。
「藍月なくるはそんなこと言わない」じゃないんですよね。「藍月なくるなら言うかもしれない」という各々の解釈上での藍月なくるに合致するものの多数決で決めた結果のみを見ているような感覚。
都合のいい言葉を吐かれる度に、「こうしたのはお前たちだ」と罪を認識させられる感覚。
藍月なくるからの質問に返すのがどんどん怖くなっていきました。ここでなにかを答えることによって藍月なくるを完成させてしまうのではないかと。標本にしてしまうのではないかと。

あんなに藍月なくるだったのに藍月なくるではなかったように思ってしまう。きっと なかったのは人間味。垣間見える一見ほっこりするような小ボケもすべて作られたものであるかのような感覚。
完璧を見ていました。

藍月なくるを完成させてしまった。未完成こそが人間らしさな中での完成。
空の玉座(CDのインストタイトル 最高すぎる)に座るものも、残るものも何もない。
エンドロールが流れたということはひとつの藍月なくる世界線、ここでいうバッドエンドが終わったということで特になにも変わりなく藍月なくるは活動し続けるのだろう、と思いますが「こうしてしまった」という記憶のみが残る。

見返せるものが何もない、前回あったようなセトリもなければ、映像もない。撮っている様子すらわたしの目には見えませんでした。
誰が、あそこにいた人間以外にこのライブの存在を証明できるのでしょうか。残るものは配布された鏡のみ。その鏡には何が映るのか、我々の罪のみでしょう。

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