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命の重さが異なる原因について考えてみる

こんばんは、ゆんです。
家に虫が出た時(家の裏が淀川で虫が多い)、”もし自分がこの虫だったら”を考えてしまって殺すことができないのに、蚊とゴキブリだけは躊躇なく殺せます。

今回は、『命の重さが異なる原因について考えてみる』というだいぶ重そうな話をしたいと思います。

最近の通勤中に起きたある出来事をきっかけに、少し命について考えてみて思ったことを書いてこうと思います。

これはあくまで”考えてみる”なので、今回は特に結論はないです。
一つの捉え方を綴っただけですので、「こんな考え方もあるんだなぁ」程度に読んでください😚

猫が死んでいた

何日か前の日の朝、僕がいつも通りに自転車で会社に向かっていると、道路の前の方に黒い影が見えたのですが、そこにはおそらく車に轢かれたであろう血まみれの猫の死体がありました。

これを見て僕は驚くと同時に、悲しいような切ないような、少しやるせない気持ちになります。
周りにいる人達もこれを見て、多分”可哀想だ”なんて思っていたはずです。

僕の家では去年の秋頃から黒猫を飼っているんですが、その死んでいた猫が同じ黒猫だったもんで、余計に嫌な出来事でした。


こんな光景を目の当たりにした僕ですが、先に進んで会社に向かわないと遅刻してしまうので、猫の死体をどうにかすることはなくそのまま横を通って行ったのですが、時間が経ってもその猫のことが頭から離れません。

そうやって猫のことを考えながら自転車に乗っていると、ひとつ、ふと思います。

みんな虫は簡単に殺すのに、なんで動物が死ぬとみんな悲しむんだろう。

僕の場合、虫を殺そうとした時に虫の痛みを自分の体で想像しちゃって殺せないんですけど(でも蚊とゴキブリは躊躇なくいけちゃうんだよね、なんでだろうね)、結構みんななんの躊躇いもなく殺しちゃいますよね?

別にこれは僕がえらいとか言ってるんじゃないです。
いや、まじで。


ただ、こうやって簡単に殺されちゃう虫に比べて、僕たちは動物を”殺してはいけないもの”と捉え、殺そうとはしません。
殺したら罪にだって問われます。


なんででしょう?



原因は感情?

そこでいろいろ考えてみたんですが、まずひとつ思いついたのは、虫には感情が無いからではないかということ。


この記事を書く時に少し調べたのですが、どうやら”感情”というものはかなり高度なものらしく、知能がかなり高い生き物しか持ち合わせていないようです。

それに加え、虫には痛覚も無いみたい。(僕の、自分の体で考えてしまうことはどうやらお門違いらしい。)


つまり、虫には感情が無くて痛覚も無いから、死が怖くもなければ痛くもない、だから殺せるのではないのかということです。

少し関係ありそうですね。



原因は教え?

ただここでひとつ引っかかるのが、幼い子どもも同様に虫を簡単に殺せるということ。


おそらく大半の子どもたちはこの事実は知らないはず。
けれども、子どもたちは虫は殺して動物は殺さない。(何度も殺すというワードが出てきてごめんなさい。この先もたくさん出るから我慢して。)

感情や痛覚という理由かどうか怪しくなってきましたね。


この理由を考えた結果、僕の中で出た結論が、親や先生から動物を殺しちゃダメとは教わるが虫を殺しちゃダメとは教わらないというもの。


これなら理屈が通りそうです。

幼少の子どもにとって命が大切という認識は、大人と比べるとおそらく薄いので、親や先生から「動物は殺しちゃいけないものだよ。」と教わるまで、虫と動物の命の重さには大差がなく、どちらも”殺しちゃダメなもの”という認識が薄いのかもしれません。


そうなると、”感情と痛覚”は大人にとっては関係あるかもしれないけど、子どもにとっては関係なく、(大人も当てはまるけど)”教え”によるものが原因の可能性が高いですね。


でも、その”教え”も元をたどれば必ず、そうやって教えた理由がなにかあります。

もう少し理由を探してみます。



原因は実感?

よく聞く話ですが、養鶏家は鶏肉を食べれないなんてことがよくあるそうです。

僕が聞いたところによると、鶏肉として出荷する際に鶏を殺す方法が、だいぶグロいです。
気になる方は調べてみてください。(ここでは書きたくない。。)

こうやって、何度も鶏のグロテスクな死を体感している養鶏家さん達は、鶏肉を食べようとした時にそのシーンを思い出すのでしょう。
その結果、鶏肉を食べれなくなってしまうのです。


これはかなり極端な例だったけど、つまるところ死の実感の大きさが動物に対して感情移入する大きな原因なんじゃないかと思います。


虫を殺した場合、虫の身体は人間よりもはるかに小さいので虫の死体の細部まで見えないし、表情もないし、赤い血も流れないので、虫の死の実感はあまりわかないと思います。

対して、動物を殺した場合、内臓やらなんやらがはっきりと見えるし、苦しそうな表情を見せるし、赤い血で痛々しさが伝わって、動物の死に対する実感がかなり強く出るんじゃないでしょうか?


僕個人としては、これが一番大きな理由なんじゃないかと思います。


確かによく考えてみると、僕も虫はまだ目に見えるから自分の体で痛みとかを考えてしまうけど、目に見えない小さな生き物の場合は?
ダニが死のうがプランクトンが死のうがなんとも思わないです。


そうなってくると、そろそろ「本当に命って大切なの?」みたいなヤバい発想になってきちゃいそうなので、このあたりで終わろうと思います。



まとめ

まぁ、自分なりに感情だったり教えだったり実感だったりいろいろ理由を考えてみましたが、どうだったでしょうか?

答えなんてのはないんだろうけど、結構自分なりには納得できました。

これを書きながら途中で思ったんですけど、最近完結した漫画の『約束のネバーランド』が割と近い世界観にあるんじゃないかなぁ?(全巻持ってます)
とても面白いのでぜひ読んでみてください。


今回は、『命の重さが異なる原因について考えてみる』という話でした。


最後まで読んでいただきありがとうございました!

またね!

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