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麺を啜る書生

 肌を切りつけるような寒風の吹き付ける11月のある夜。私はいつもの駅で電車を降りて辺りをうろついていた。

 学校が終わり塾へ行く道である。普段馴染みの中華料理屋も前から行きたかった苦いスープの煮干しラーメンの店も不運なことに定休日だった。

 早く麺を啜りたい、土気色の澄んだスープにほうれん草ともやしを絡ませ勢いのままにずおおと食い散らしてしまいたい。

 そう思いながら駅の周りを学生服のボタンを外しポケットに乱雑に手を突っ込んで肩を落としたまま歩いていると「ラアメンシヨツピング」という赤い看板が目に入ってきた。

 普通の平屋に看板をつけてすわラアメン屋でございと名乗っているある種おこがましさすら感じる佇まいである。

 客の気配が一切しないのが気がかりだがこちとら飢えに飢えているのだ。躊躇いもなくガラス戸をガラガラと開けた。かなり建て付けは悪かったようだ。

 「いらっしゃい」の言葉もなく62歳くらいの老夫婦が私を見据える。中も少し埃っぽい感じはするがカウンターは一丁前に感染対策の仕切りがついている。図にするとこうだ。角席に私は座った。

 壁にでかでかとお品書きが書いてある以上間違いなくここは飯屋のはずだ。
 もっとも1:2の割合で食事より酒類の項目の方が多かったからもしかしたら飯屋ではなく呑み屋なのかもしれないが。厨房のコンロにも火は通っておらず、本当にここでうまい食事がとれるのか不安になってくる。

 店は見た目ではない。こういう一見小汚く見える店に冴えなそうな店主でも一度注文が入れば人が変わって機敏な動きを見せて絶品料理を振舞ってくれることだってある。

 だが、それにしてもこれはどうも期待が持てない。しかもお品書きを見る限りどれもまあまあ高い。かなり危険な博打になることは目に見えていた。しかし、こうなった以上行くしかない。

 「豚ゴマつけ麺大盛りに玉子トッピング、ネギ無しで」

 と丹田に力を込めて剣道で打ち込む前の雄叫びのそれのように一息で言い放った。今思うとどうしてラーメンの口だったのにつけ麺を注文したのかわからない。

 注文を待っていると店の親爺が水を置いてくれた。置くのはいい。

ただ、ちょっと遠かった。惜しかった。もう少し頑張ってくれたら嬉しかった。

 まあしかしサービスしてくれただけで充分有難いと思うべきである。
 文庫本を読みながらもらったコップに口を付けようとすると、強い刺激臭が鼻腔を襲う。これは本当にH2Oの物質なのか疑ってしまうような臭いだ。間違えてHCLを飲ませようとはしていないだろうか。少し中の液体を舐めてみる。
 
 やや強いカルキ臭とエグ味を感じたものの一応水と看做して問題はなさそうだ。ただまた口を付けるのはやめようと思った。  

 読者の方々も思い返してみて欲しい。ラーメン屋、蕎麦屋、寿司屋、洋食屋、カレー専門店、どこでもいい。 

 店に入ってすぐ水を飲んだらそれがどうしようもなくまずかった。そのような経験を味わったことはあるだろうか。ほとんどないだろう。

 水環境の悪いアフリカや中南米ならいざ知らずここは水資源に恵まれた日本である。雨水や川の生水を直に飲んだ方がまだおいしく感じた。導入初期の消費税程度にはあった不信感が軽減税率無しの今の消費税くらいには高まってきた。

 しばらくすると注文したものがカウンターに置かれる。ここまで積み重ねた仄暗いイメージよりかは幾分マシそうなつけ麺が目の前に現れた。しかしとはいえ「ウワアオイシソー!キャー!」となるような感じでは決してない。箸でもって麺を掬ってワカメを挟みスープを潜らせて勢いよくずおおと啜り上げる。するとまたも舌に違和感を覚えた。

────冷たい。

 しつこいがまた読者の方々は思い返してみて欲しい。
 ラーメン屋に来てラーメンを注文した。トッピングのワカメを食べたらそれが冷たかった。あまり考えられないだろう。 

 たいていはスープに温められ人肌並の温度になっている。ワカメが温められていないということはもちろんスープもぬるい。熱いスープがぬるくなることはよくあるがこれはのっけからぬるい。後日友人から聞いた話によると

「ラアメンシヨツピングのスープは決して全部飲んじゃいけない。翌日100%の確率で腹を下す。
 これの何がすごいったって普通そういうそのような地雷メニューというのは店にひとつもあれば十分なもんだろう。
 この店は全部のメニューでそうなる。しかもあそこは時々店に置いてあるニンニクのチューブだとかコショウの缶だとかの賞味期限が切れてるものだってある。お前そっちに手付けなくてよかったな本当」

  なんて言ってきた。こりゃ大変だ。空腹バフがかかってる間に短期決戦に持ち込まないとえらいことになる。

 麺は小学校でよく食べたソフト麺をもう2段階くらい格落ちさせたようなシロモノでまだコシという概念を学習していないと見える。

 噛むと力なく口の中でブツブツと切れて来るしチャーシューはボロ雑巾を三枚おろしにして切り分けたような情けない面持でスープの上を揺蕩っている。

もう食い逃げならぬ食わず逃げして帰ってしまおうかと思ったくらいだ。しかし頼んでしまった以上仕方がない。 
 こんな中でももやしだけはしっかりもやしとしての矜恃を持って安定したもやしクオリティを発揮していた。信じられるのはお前しかいない。もやしを頼りにわしわしと麺をかっこんでいく。

 4割ほど食べたところでもやしが尽きた。だがスープだけで食べられるほどのものでは到底ない。あの中からまだマシそうな具材と共に食べる他ない。

 ボロ雑巾チャーシュー、冷たいワカメ、そして充電器のケーブルくらいの太さしかないメンマなのかカンピョウなのかよく分からない黒みがかった茶色の物質。

 13秒ほど箸を空中に留めて思考した。何を切っても爆発する気しかしない爆弾処理、ハズレしかないくじ引き。日頃麻雀で散々やってきた選択である。

 箸をつける前に親爺に1120円の勘定を渡す。

 いざと言う時すぐ店の戸を蹴破って逃げ出せるようにだ。荷物もまとめて置いていたリュックも肩にかけた。

 私が選んだ選択は、全て放り込むことだった。

 椀を傾けこれらの具を良くスープに浸し、口いっぱいに麺を頬張りにかかる。少しつまむだけでもう苦しかったのだ。全てをラアメンシヨツピングで埋め尽くすなんて愚行of愚行である。

 4回ほど噛んだところで限界が来た。たまらず水で流し込もうと図ったのだが、これがいけなかった。それは先ほど述べた一応水と看做せるとしたものだったのである。マイナスにマイナスを加えてもより大きなマイナスになるだけだ。えげつない風味に脳を殺されながらも無理やり食道へ押し流した。そしてここで私はギブアップ。箸を置いて背を屈めたまま小走りで店を駆け出した。

 気分は最悪。

 何かしらで口直しをしないとやってられない。しかしこれ以上無駄にリスクを負うのも御免だ。とりあえず駅へ戻ろうととぼとぼとまた肩を落としてぶらついていく。自動販売機で一風堂のスープ缶を買ってちびちびやりながら塾へ。スープは温かく、そして基本的に旨いようにできていることを改めて学び直した。

 11月。湯の有難さが身体に沁みる時期であった。

  

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