マッチョイズムからの脱却

11月18日は国際男性デーということで、今日はお昼間の移動中に、営業をお手伝いしているスリール株式会社 社長の堀江敦子さんと、旦那さまである筒井健太郎さんが開催されたTwitterスペースでのトークを聞いていた。

マッチョイズムについては、筒井さんがこんな記事を書かれている。

男性が、「男らしさ」に囚われている(影響を受けている)というのは、家族や先輩方、友人たちを見ていても、良し悪しは置いておいて、少なからずあることだと思う。年代が高い人ほどその傾向が強い感じもするが、歳を重ねて肩の力が抜け、いい意味で“弱さを出せる強さ”を身に着けている方もいるし、また年齢だけの問題でもなく、親の価値観の影響等も大きいかもしれない。人によっては、それがかえって原動力になっていることもあると思うし、ご本人が辛くなければ問題はないのだろうけど、どこかで本当の自分とのズレを感じ始めた時は、自身のマッチョイズムについて客観視するいいタイミングかもしれない。ちなみにその際には、今日筒井さんもおっしゃっていたが、“マッチョイズムに実は守られていた”ことにも気づき、その奥にある自分ともきちんと向き合わなければならなくなる。

今日話を聞いていて、私(一応女性)もまさにこのマッチョイズムを元々持っていた人間で、そこから脱却するべくずーーっと奮闘していたのかもしれないなあということに気がついたのだった。

(Myマッチョイズム)
・優秀でなければいけない
・仕事ができない自分には価値がない
・稼いでいない自分には価値がない
・できないのはかっこ悪い

今、こう書き出すと何だかすごいな(汗)だけど、元々私はこんな思いをどこかで持ちながら毎日過ごしていたように思う。今も多少、その残像が顔を出して、「世間での評価」と「本来の素直な自分」の間のバランスで揺れることもある。仕事に関して言えば、どなたかの役に立つ必要があるから、評価を気にするのはまあ当たり前でもあるのだけど。
知らず知らずに備わっているこれらの思いは、時に向上心を刺激してくれる材料ともなり、うまくいっている時はそれでも特に問題はない。

私がマッチョイズムから少し降りたくなったのは、会社員の頃、「会社で求められている像」と「私にとっての成功(この表現だとわかりづらいけど、心理的成功の意味合いが強い)」が乖離してることに気づいた時だった。そこから、いろんな人との対話や、実践も繰り返しながら、自分の鎧を少しずつ脱いでいくことになるのだけど、長年持ち続けてきたMyマッチョイズムは、本当の自分を見つめるのをだいぶ困難にした。それでも、自分にそんな思いが備わっていたことに気がつけてよかったと思っている。

男性は、環境的にも、確かにマッチョイズムからの脱却をよりしづらいのだろうな。。
そんな本音を吐けば“弱音”と思われたり、はたまた「家族を支えないといけないからそんなこと言ってられない」というのもあったり。育休取りますといったら「ああ、第一線でいる気がないのだな」と思われてしまったり。。挙げたらきりがないくらい、日常に当たり前のようにいろんな壁があることは想像がつく。

今日、筒井さんが言ってて印象深かったのは「男性は友達にもそうした本音はあまり出せない」という話だった。私はこんな風にnoteを書いてるくらいだし、私のまわりの女性の友達も基本そうした本音を話してくれる人が大半だったりする。一方で男性ではまだまだごく少数だと思うし、男同士ではそんな話はしない、と確かに聞く。

別に、誰もがありのままで生きるべし!!とは思わないし、私自身もありのままってまだまだ難しくて模索中だし、やろうとすると案外覚悟もいる。だけど、マッチョイズムから脱却すると、より折れづらく、強くなれて、もっと新たな才能が開花するチャンスなのだとも最近は感じている。実際私は、できない自分や、ありのままの自分を認め始めたからできるようになったことというのが、ちょこちょこある。

男女限らず、自身のマッチョイズムと向き合ってみたい人がいたら、ゆっくり語り合ってみたい。









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