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愛することと信じること

こう書くと、この2つの言葉はイコールのように思いたいところなのですが、中々相反する時が多いなぁと思うことでもあります。
好きすぎて、相手の自分に対する愛情を計ってみたり疑ってみたり、そんな遠い記憶が私にもあるような。

このテーマで一番日々自分と向き合うことを余儀なくされたのは、子どもとの関係でした。

かけがえのない愛すべき子どもだからこそ、将来を心配してついガミガミ叱ってみたり、甘やかすと調子に乗るのではと心配したり…

そんな時、もう20年も前のことでしょうか、親と子の関係を考えるアドラー心理学を学びに行きました。その時教えていただいたのは、子どもが人生で転ばぬように叱ったり、手を出したりしている行為は、子どもを助けているようで、子どもの成長を阻害していること、そして何より私が子どもを信じてないことに繋がるということでした。
そう言われた時はショックでしたが、確かにそうです。子どもがスーパーで駄々こねて叱る時も、それは子どものしつけと言いながら、私はちゃんと子どもを仕付けてる母親なんですよ、と周りに認めて欲しいからなのだと


その勉強会では、宿題も出ました。それは次の授業まで、子どもを叱らず出来るだけ受け入れてください、というものでした。我がまま放題、第一次反抗期の我が子、叱らない日はないほど毎日バトルを繰り返しているのに、そんなことができるのだろうか。不安に思いながら、日々その日報を書くことも課題となり、少し絶望的になりながら帰宅したのを覚えてます。

最初、子どもは何をやっても怒らない私に戸惑いを感じていたようでした。何か悪いことする時は、やりながらこちらの様子を伺っていることに気がつきました。
叱ることもできないので、何故それをしたくなったのか聞いてみました。子どもは、とても嬉しそうに一生懸命辿々しい言葉でワクワクを話してくれました。何だかこちらまで嬉しくなって一緒に楽しむと、ある時点で満足したのかそれ以来、その悪戯はやらなくなりました。

そうこうして半月も経つと、気がつけば私はガミガミしなくても良くなり、子どもが癇癪を起こすことも格段に少なくなってきました。

その不思議な現象に次の授業で報告すると、「信じられている」という安心感を子どもが持ったのね、と話してくれました。
この私は信じられている。あるいはこの人だけは、どんなことがあっても味方でいてくれる。その思いを子供の頃に持てるということがとても大切なのだそうです。それを出来るだけ幼い内にまず根っことして植えつけてあげること、色んな教えやしつけはその後からでも全然遅くないとのこと。

私が尊敬する佐々木正美先生も「子どもへのまなざし」でこのようなことを書かれていました
子育ては、家づくりに例えると幼少期が土台、小学生が柱や壁、中高は壁紙、大学は家具や絨毯。家具や絨毯はすぐに取り替えられるけど、基礎や柱は中々変えられない。だからこの時をぞんざいにしてしまうと、後からやり直そうとすると大変なのだと。

信じられていると自分で思えることが、自己肯定感が育つファーストステップ。

勿論、親でなければならないわけでもないでしょうし、親がいくら兄弟同じように愛情かけても、子どもの受け止め方で違いも出てきます。自分に自分で嘘がつけない分、子どもがそう思えるかどうかは、子どもに委ねるしかないのですが、それを教えてもらってから子どもにはとにかく無償の愛、有り余る程の「好き」を伝え続けてきたつもりです。

それは、私が子どもを信じ切れているかという、自分の修行でもありました。そんな学びの機会を与えてもらったことに感謝です。

それでも子どもがどう受け止めてくれたかは、子どもが決めるのですけどね。
親というものはそういうものなのでしょう。
そうして私も育ててもらったのだと、改めて両親に感謝です。

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