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こころの故郷は義父

GWになると毎年楽しみにしていたことといえば、それは家人の実家に帰り、ヤマブキや蕨を採りに行くこと
義父が元気だったころ、子供たちの楽しみはおじいちゃんの運転する軽トラの後ろに乗り込んでその山菜が群生しているダムに沿った山に入っていくことだった

義父は山が好き、手先が器用で、趣味も多くとても粋な人だった
舅と呼ぶのも違和感を感じるほど私は娘のように可愛がってもらい、一度も怒られた覚えがない
義父母とても仲が良く、仏様のような二人だといつも思っていた

永く小学校の校長を務め、定年退職してからは町のため村のためにと勤めも果たし
さあ、これから、夫婦二人で世界中を旅しようねと話していた矢先、義父は病魔に倒れた

初めは、あれほど好きだったゴルフに行かなくなった
旅行でも、率先してどこでも歩いていたのに、下で待っているというようになった
日曜ごとに、新聞に掲載されているクロスワードパズルを一緒に解くのを楽しみにしていてくれていたのにその紙面を広げることさへ億劫がるようになった

あれよあれよという間に症状は進行し、父は自分の名前を言うのも、家に帰ることもできなくなった
初めはアルツハイマーかと疑っていたが、それには進行が速すぎる
何度かMRIを撮ったり調べていくうちに原発性の脳腫瘍だと診断された

普通、癌というものは、まず体内のどこかに出来、それが進行していき、最後脳に到達するというプロセスを踏むらしいのだが、父はいきなり脳から始まった癌で、そのがん細胞が脳内を圧迫しアルツハイマーのような症状を引き起こしていたのだそう

母の驚きとも、哀しみとも言えないあの表情を忘れられない
それでも、その哀しみに浸る暇はない、初め父は余命1年もないと宣言されていたからだ
母の必死の看護が始まる
入院先は我が家からだと30分くらいの所
母は慣れない我が家に泊まり込み、病院との往復を始めた

私も外回りの営業をしていたので、暇があれば父の待つ病院に通うことができた
私が知っている聡明で穏やかな父の姿はそこになかった
母に駄々をこね、我儘放題の父
それでも、私が来ると少しかっこをつけるのか
何事もなかったようにおすましをして迎えてくれる
そして、幼いころの思い出を思いつくままに語ってくれるのだった

父が1歳の時父親を亡くし女手一つで育てられたことは知っていた
お寺の娘だった父の母が持ち込んだ着物を売り、数少ない田んぼを切り売りしながら、爪に火をともすような生活をしていたこと

あまりのひもじさに隣の柿の木から柿一つ失敬したことがばれ怒られたとき
逆に「何故うちには柿の木ひとつない貧乏なのだ」と泣いて訴え
母になけなしのお金をはたかせ柿の木の苗を買ってきてもらったこと

修学旅行に行くための靴がなく、親友に靴を借りに行ったこと
貧乏すぎて、行く大学も滋賀大と限られ
それでも定期代が払えず、初めの1か月大学に通えなかったこと

常に穏やかで、人の悪口もいわず、仕事のぐちもこぼさず
「孤高の人」という形容詞がぴったりだった父が今まで決して誰にも話さなかったことを、こころの扉を開けたのかスラスラと言葉にして、思い出が紡ぎだされていく
私は、その父の言葉を一言も聞きもらすことのないよう丁寧に丁寧に記憶にたたみこんで行った

いま思えば、父の病魔は
私たちに最後の大きなプレゼントを残してくれたのかもしれない
義母も知らなかったという話、心の中に一生とどめておくつもりだった父のほとばしる感情を病気がさらけ出してくれたのだ
父は、最後まであきらめず戦って、余命と宣告された倍の時間頑張ってその生を全うしてくれた

最期のことばは、もうすでに妻さえも分からないくらい意識が混とんとしていた頃、奇跡的に目に力強さがもどり 孫娘を見て
「なあちゃん 可愛いなあ」とつぶやいてくれたのがおしまい
最後まで一人息子の将来を案じ孫の成長をを楽しみにしていてくれた

今でも逢いたくなる
困難に出会う度、お父さんがいたらどうアドバイスしてくれただろうと思う
それまでただのお飾りくらいにしか思えないほど信仰心のない私がお仏壇に向かって
「ただいまお父さん」と心から手を合わせるようになった
子供たちも、自然にお供えをあげてはおじいちゃんに語りかける
あれからもうあっという間に時は経ち、昨年17回忌の法要を済ませた

GWが始まった
今や総自粛でそれぞれの場所で思い人を思い遣ることしか出来ないけれど
思う存分 あの世と現世を行き来しつつ、おしゃべりしてこようと思っている

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