似顔絵

この似顔絵を見てこれが私たち親子だと何人が気付くだろう。
もちろん15年前の写真ということを差し引いてでもある。

衝撃だった
人が聞く自分の声や印象に多少の認知のゆがみや、誤差があることは分かっている。
写真を撮られてこんな私は私じゃない、そう想うことも多々ある。
それでもこの似顔絵は、私が思う私、そして息子とあまりにもかけ離れていると思った。

この似顔絵を描いてもらったのは、パリのモンマルトル。
息子と2人旅したときのこと
その広場にはたくさんの芸術家が集まり、自分の絵や似顔絵を売る絵師でとても賑わっていた。

描いてもらうことは前から決めていた。
一件一件を丁寧に見ながら、私たちの前にお客として座ってる人や、描いている様子を十分に観察し一人の絵師に声をかけた。
その方は、口数少なく、目の前に座るモデルに対して一番忠実に描いているような気がしたから。

そうして小一時間後渡されたのがこのスケッチだった
イメージとあまりにもかけ離れた作品に対する落胆と共に
「ああ、これがパリの人からみた日本人なのだ」
と、妙に納得したことも覚えている。

※ノートルダム寺院前で

それからこの写真はある意味私の指針ともなった。
同じものを同時に見ても決して人は同じように感じていないし、見えてもいない。
まして、育った文化が違うとなおさらだ。
モネが書かれた睡蓮も、パリの人が感じる印象と私たち日本人が受け止める印象とでは
全く違うのだろう。

これは育った国や、言葉が違うだけに限らない。一緒に日々を暮らし、生活を共にしている家族でさえも、一人一人見え方も感じ方もやっぱり違う。
言葉のとらえ方も、どんなに丁寧に説明してもこころに届かないことも多々あるのだと、
そう納得すれば、気持ちはずいぶん楽になった。おかげでその後子どもとの関わりも母子一体化することなくいい距離間を保ちながら過ごせるようになったと思う。

逆をいえば、自分と同じ感覚を相手に求めることが無茶なことであり、求めても仕方がないことなのだ。
自分がしてあげたいと思ったことも、その見返りを相手に求めるから哀しくもなり腹も立つ。
全く同化しようと想わなければその違いもまた楽しめるようになる。

人とは相いれないものだと分かったうえで
それでも私は発信したいと想う。
自分が伝えたいことの半分でもいや四分の一でも誰かと共鳴できれば素直に嬉しい。
人に期待していない分、
「同じだねっ」て思えることが
小さな喜びの積み重ねとなりありがたい。

そしてそこから互いがまた響きあい、新しい何かが生まれることがとても大切な人としての営みだと思ってる。

完全なる一致からはそれ以上のものは生まれない
ゆがみによる小さな差異が、次のエネルギーの基となると信じてる

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