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私はやっぱりカウンターに立っている

中学2年から高校卒業するまで、実家の喫茶店「マ・メゾン」のカウンターに立って、母のお手伝いをしていました。

あれからもう40年、私はまた、カフェ・咲論の日替わりママさんの1人としてカウンターの中に入ってる。

実家の店内の床は少し低くなっていて
カウンターの端から端まで動くと
敷かれたスノコがかたかたと鳴っていた

母が開いていた「マ・メゾン」の常連さんは
カウンターがとても好きだった
たいがいみんな一人でやってきては
いつものようにコーヒーを頼み
馴染みの友が来ることを期待して
私と同じように
ドアベルが鳴るたびに
入口に目をやった

いろんな人がいた
サラリーマン
自衛隊
学校の先生
高校生

それぞれ、日常の世界では
決して出会わない、また混じり合わない立場の人々がこの空間の中だけはその仕事での立場も封印し、年齢を超え共に語りあっていた

いつもは肩に力を入れて
教壇に立っているであろう先生も
ここではひとりの女性となって
年下の学生に身の上相談していたり
テーブルに仕組まれたポーカーのゲーム機に
歓声をあげストレスを発散させていた

いつもの自分でない自分を
安心してさらけ出せる場所
どちらが本当なのかなんてヤボなことは聞かないが
両方を発散させる場がそれぞれ必要で
彼らにとっては普段見せない自分を「マ・メゾン」で落としていたのだろう

陰と陽

常識的な自分とその裏側にある狂気的な部分
人は誰もがその両方を携えて生きている
無意識的に片方しか見ようとせずに
今を過ごしている人のほうが多いかもしれない

でも、その一方で
こうありたいと強く願えば願うほど
その反対の自分がますます心の奥底で
くっきりとした影を落とす

カウンターにたつと
何故かその人が今日はどんな気分で居るのかが分かった
話しかけてもらいたくない人は
そっと目の前の場所を離れ
何か語りかけて欲しいという人は
ひと呼吸ずらしながら
少し斜め前に立つ

自分に語りかけるように話し始める人
偶然隣あった人と
会話のキャッチボールを楽しみ出す人
何故か気分が優れなく
言葉が攻撃的になっている人
どんな場面でも私は粛々と仕事をこなす風に
布のフイルターに湯気を立てながら
コーヒーを落とし
お客さんの目の前にカップをそっと差し出し
空気をリセットする

そうして人は過ごしたいように過ごし
もう一人の自分を存分に遊ばせて帰っていく

だからこの人はこんな人だとは決めつけられなくなった
と、同時にどんなバカなことをしていても
性格が悪くて、手を焼いていたとしても
愛すべき一面をみてしまうと
面白い人なんだと
その人間が嫌いじゃなくなる

嫌いじゃないと相手に伝わると
相手はいい部分の面で接しようとしてくれる
ますます、いい関係は続く
まず、その人を好きになる
先に好きになるところを見つける

それがどんなに大切で
豊かな人生を支えてくれるものなのか
教えてくれた場所だった

また、カウンターに立ちたいな
そんな風に考えていたら、思考は現実化するのね。
私は4年前からやっぱりカウンターに立っている。そしてあの頃と変わらずお客さんとの会話を楽しんでいる。

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