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女冥利に尽きる生き方

 先日友だちからのアドバイスもいただいて、自宅に神棚を設えました。お札を飾るシンプルなものなのですが、それがその場所に収まって、家がどっしりしたといいますか、大きなものに守られている、そんな気が致します。

 元々私は不信心者の極みで、高校はプロテスタントの学校で毎日讃美歌と聖書を携えて過ごしていたかと思えば、大学は大谷真宗系の大学に進むありさま。
 高校3年の洗礼を受けたばかりの担任からは、私が大学受験候補に西に東に浄土宗の仏教系を複数受けると話すと「神への冒涜です」と言われる有様でした。
 それに益々反発するように、私はどこの宗教にも属さないと心を頑なにしてしまった気がします。それで何の不自由も感じませんでした。相変わらずクリスマスにはツリーを飾り、お正月には神社に参拝します。
 それも許されてるのが日本、元々多宗教が共存しているだけでなく、土地の氏神さまなど自然を信仰する心持ちが根づいています。宗教が嫌いという私も神社に行けば手を合わせるし、八百万の神さまの存在を信じてます。
 コロナ禍の中、おこもり生活が続きました。
外に出かける時はマスクが欠かせません。人と話すのもモニター越し。息苦しさは呼吸だけでなく心にも響いてきました。
 私は、そんな生活が堪らず、早朝に起きて人がまだそんなにいない時間帯に散歩することにしました。その時、ちょうど散歩コースの中間地点にある神社にふと入ろうと思ったのです。村の守り神的存在の神社、勿論朝早くから誰もいません。
二礼二拍一礼してその社の奥に目をやると、こじんまりとした鎮守の杜がありました。
そこに引き寄せられるように進むと、そこは異次元の世界でした。一歩踏み入れるだけでシェルターに守られているような空間に来たような気がしたのです。
 空気が違いました。私は自然とマスクを外しました。木々の木漏れ日が煌めいていました。私は大きく日の出の光に向かって手を広げて深呼吸しました。
 ここならウイルスからも守ってくれると思えました。安心してマスクを外し大きく息を吸って体操ができました。身体中の細胞が喜んでいるのがわかりました。その日から雨や用事がない限り、毎日お参りしては、そこの鎮守の杜を訪ねるようになりました。
 そして祈りを重ねているうちに、祈りとはお願いではなく感謝を伝えるところなのだという気持ちが自然と湧いてきたのです。
 人それぞれ「信じる」ということは、違うかもしれません。勿論自分のその信じる形を人さまに強要するつもりもありません。
 あれから半年あまり、まだまだコロナウイルスの猛威は治らず、社会の様子も一変してしまっていますが、私は毎朝そこで心を浄化しリセットしているからか、思った以上に心穏やかな日々を過ごさせてもらっています。その昔、自分の力だけで人生を切り開いている、そんか不遜にも近い考えしかなかった若い頃の私より、自分が好きになれました。
 先日、私が尊敬してやまない樹木希林さんが残した言葉に「冥利」という言葉について書かれたものに目が止まりました。
男冥利、女冥利と使われているあの「冥利」です。その意味は、ー 人が知らず知らずの間に、神仏や他人などから与えられる福利、恩恵 ーとのこと。
 今私が神社や人の触れ合いの中で感じていること同じで、すっと身体に入ってきた言葉でした。
この言葉をゆっくり噛み締め、少し色香も感じるニュアンスの「女冥利に尽きる」生き方をしていきたいと思います。

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