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母と弟

 ― 私の子育てにおいて母に教えてもらった金銭教育の原点がここにありました -

我が家におとうとがやってきたのは大学1回生の頃だった

いや、正確にいうと、私の母の弟の子

名前を「よしゆき」と称しておく

ある日哲学の道沿いの公衆電話から実家に電話をかけると

「よしゆき」が我が家でくらすようになったからと短く告げられた

正直いって、あまりよしゆきの記憶はなかった

知っていたのは、よしゆきの下の子が産まれようとしたとき母親が亡くなったことと、大好きだった叔父も数年前に亡くなったこと

それから母方の親戚を転々としていたらしいのだが、長女である母が私も家を出たので預かることになったのだという

そのことを聞いてどこまでも脳天気な私は、弟が出来たと喜んだ

初めての帰省もお土産選びに嬉々とし、私はたくさんの荷物を抱えて懐かしの喫茶店のドアを開けた 「ただいま~」

「あら、お帰り!ちょうどご飯を食べようとしていたところやったとよ。よしゆき!弓姉ちゃんの分のご飯もついできてくれんね」

しばらくすると、大きな体を小さくして、小学校6年になったよしゆきがご飯茶碗を3つ厨房から運んできてくれた

「よしゆき、ただいま♪ありがとう、さあごはん食べよう」

私はよしゆきから茶碗を受けとる

ん、何かが違う

よしゆきと私たちによそってくれたお米の色艶がちがう

「よしゆき・・・そのご飯」

「ああ、おい、いつも冷や飯食べとったけん熱かと食べられんけん、こいでよかとよ」

甘えるべき時期に、甘えることなく、常に周りの大人の顔を見ながら今日まで過ごさざるを得なかったよしゆき

母も、その言葉に絶句し、温かいご飯を食べていいのだと、何度も言った

私は、そんなよしゆきが不憫で、帰省の度に猫かわいがりし、バイトで稼いだお金をお小遣いとし渡したりしていた

しかし、母はよしゆきに対してとても厳しかった。

家の手伝いはもちろん

「おうちは私の身内ばってん、おじちゃんは他人なんやから」と父への気遣いを要求し、

夜間の高校に通わせ、昼間は畳屋さんで信じられないほどの安い月給で働いた

その5万ほどのお給料も殆ど母が生活費として取り上げる

あまりの母の厳しさに見かねた身内からは、母に面と向かって意見する者もいた

「こんな、かわいそか身の上なのに、なんでもっとやさしくしてやらんとね。まるで使用人のごと、こきつかってから」

そんな時も母は何も言わず、さりとて方針を変えることもなく今までと同じようによしゆきを躾ける

ある日私は母に尋ねた

よしゆきはどうなるのかと

母は静かに答える

「弓、よしゆきは親もいん兄弟もいん、これは、どんなに今私たちが守ってあげても、かわいそかって同情しても、大人になったとき、そのハンデを背負って生きていかんといけんとよ。それに負けない気持ちを作ってあげんばとたい」

そうなのだ。母はいつも周りの飾りをすべて取っ払って、一番大事なところだけを見ている

いつも、母にはかなわない

どんなに苛酷な職場でも、家と学校から近いこと、必ず学校が始まる時間には仕事を切り上げてくれることを切にお願いして選んだ仕事だった

よしゆきが汗水流して働いたお給料は、コツコツとよしゆきの貯金として全て積み立てられていた。

そしてよしゆきは、その厳しい躾けに耐え、4年間で夜間高校を卒業し、先生のお墨付きで推薦を受け長崎では大手の建設会社に就職できたのだった

今も辞めることなく、上にも可愛がられ、現場監督となってしっかりと自分の人生を築いている

私のように、ただ自分が満足したいだけで

よしゆきを可愛がっていたら、どうなっていただろう

愛を与えることの本当の意味をどれだけ分かっていたのだろう

よしゆきの成長が、私の子育ての礎となっている

あとは、よしゆきが可愛いお嫁さんを連れてきてくれることを願うばかりである


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