情慟

オノヨーコ
いつからなのか
オノ・ヨーコを意識してしまう私がいます。

もちろん話したことも
お逢いしたこともない彼女だけど
厚かましくも、彼女と自分のなかのどこかに同質のものを感じてしまう

それは情動というもの。
できれば動を「慟」に置き換えたいくらいのもの。

普段はそんなに感情を露わにしないつもりだけど、時としてどうしようもなく心が揺れ動くことがあるのです。

蓋をしていたはずなのに
その枷はあっという間にはがれ
自分ではもうなす術もない
感情が溢れて溢れてどうにも収まらない

先日あるビデオを見る機会がありました。
「Cut Piece」 と称してオノ・ヨーコの着ている服を、参加者がはさみをいれながら切り取るパフォーマンスでした。
1965年もう半世紀以上も前の日本での作品。

つぎつぎとはさみがいれられ、その行為は下着にまで容赦なく切り取られていく。
初めの頃は観客も彼女も冷静さを装っているように振舞っていたのてすが、群衆心理に起こる過剰反応が周りに起きてくると、下着に刃が向けられるだけで明らかに目は怯えたように写った。

あの時代、何を訴えようとしていたのでしょうか。人々が持つ潜在意識の残虐さ、今の「自粛警察」に現れるような多数になった時マイノリティを徹底に潰したくなる非情さだったのでしょうか。

そんなに怯えた目をするくらいならしなきゃいいのにと思うくらい、画面の彼女は弱弱しく、ふてぶてしさも感じられませんでした。

それでも、そうせざるを得ない彼女の中に何かがあるのでしょう。
人がみせるその行為は、自分の中にもあるもの。それを蓋することも出来ず、傷つきながらも直視したいという本能
そうしたくなる衝動に駆られる気持ちが、確実に私の中にも眠っているのです。

1980年12月8日、ジョンレノンが凶弾に倒れました。
全世界のスーパースターだった、彼の妻として、その後色々云われすぎた彼女だったけど、ジョンが持つ闇を心底理解できたのが
彼女だけだったのでしょう。
それはきっと彼女にとってもそう
唯一無二の存在がジョンレノンでした。

私の中にも自分でも理解できない私がいて
それを受け止めてくれる人が目の前に現れたとしたら、全てを捨ててでも進んでしまうかもしれません。
そんなサプライズはおこらないまま、生涯を閉じるかもしれません。

それでも、ふとした拍子に、オノヨーコの存在が頭をよぎる度、何故か得体のしれない情慟が沸き起こってくる私がいるのです。

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