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先日、テート美術館展「光」を見に行った。
以前ミンハオさんが、フォロコンで来日した際に訪れていた展示会。
数えきれない表情を見せる「光」を、どのように作品で描くのか。時代の変化に伴って移りゆく技法や表現も目の当たりにすることができる。
夕空の中醸し出される、微かな光。影の対称性から自然と映し出される、 少し不気味な光。芸術は受け取り手によって抱く感情が様々であるから好き。ミンハオさんはこれらを目にしてどう感じたのかが気になるところである。
そうして、光の描写に見惚れ歩いていくうちに最後に出逢った作品が、私にとって最も印象深かった。それは、オラファー・エリアソンによる 《星くずの素粒子》(2014年)。光を用いた大型空間芸術作品の一つである。
大きな空間の中、天井から吊るされた多面体。スポットライトを浴びて、その光は見るものを照らす。その光に魅了された人々は、思わず足を止め、その姿を見上げる。誰しもが光によって照らされる瞬間があり、鮮烈な印象を残す。その光はまた、それぞれに異なる幾何学的な影を残す。そのどれもが美しい……。
その在り方が、まるで、ホシくんのようだと思った。
スポットライトに照らされ、その光を受けてホシという星はまた一際輝く。
その光に魅了される私たち。そして、光が差すことによって生まれる影の姿、得られる感触や印象は、みな生きて来た背景が異なるように、十人十色なのだと私は思う。
最近、同ペンに対してどのように感じるか、という議題をよく目にする。
私は、この展示物がまさに私の考えそのものだと感じた。ホシくんという光を、どのように受け止めるのか。どのように感じ、どのように形容し、表現するのか。様々に生まれる影の形は、その人の人生を反映させながら光を受けたものであり、影の存在が、また光の証明である。
私ではない人から見えるホシくんの姿も、またホシくんである。ホシくんがホシくんであることの証明である。ホシくんがホシくんとして生きたことの。
だから、私はホシペンから見えるホシくんの姿も、そうではない人から映るホシくんの姿も、全部好き。全部が美しい。たとえそれが、自分とは相容れないような考えだとしても。
そして、そんな考え方を許してくれるホシくんが好き。
見知らぬ誰かに、自分のことをほんの少しの判断材料を持って解釈されることは、ほんとうに恐ろしく、怖いものだと思う。自分だったら、とてもではないけれど耐えられないだろうし、その評価を聞きたくもない。
それがもし楽しいと思えたら、アイドルになれるのかもしれない。
ホシくんは、「新しい一面を見せるのが楽しい」と話をした。
ホシくんは、私が考えるよりもずっとずっとアイドルで、
私が持っていた恐れや申し訳なさを、諸共せずひょいと乗り越えて来てくれる。
ホシくん。
地球は広くて、人は多くて、そしてホシくんは世界一カッコいいのだ。
「ホシくん」という人が、ただ私が大好きで、
何によってもそれは揺らがないという事実が、確信が、こんなにも嬉しい。
ホシくんが今日という1日を、またホシくんとして生きてくれたこと。
ホシくんによって映し出される影の一つ一つも、ホシくんを照らす宇宙の光の一つになれることも、全部が愛おしくてたまらない。
そして、全て当たり前だなんて思わない。
一緒に生きられる今を、ただただ大切に、少しでも永く共に歩めるように。
何度だって、言わせてね。
ホシくん、愛しています。
10時10分の日、おめでとう。
いつまでも10時10分の視線が、星の光で溢れていますように。
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