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夢を叶えたら死にたくなった話

夢を全部叶えたのに、満たされない。足りないものが探せない。

もうこれ以上どうしたらいいのかわからない。

こんなに頑張ってダメなら、もう死にたいーーー。


これが私が夢を叶えた時に感じた絶望だった。



私はいわゆる「起業女子」。ずっと起業したくて、2014年後半に活動を開始した。当時生後10か月の乳飲み子を抱えてのスタートだった。

この頃はフェイスブックがかなり勢いのあった時期だがラインすら始めたばっかり、誰かのブログを読んだこともほとんどないド主婦の私はSNSの右も左もわからない段階だった。

「ネットは怖いもんだ」という先入観がガン!と入っていた私は、おのぼりさん丸出しでネットの大海の中にほとんど死ぬ気で飛び込んでいった。今思い返すとかなり大げさだが本当だ。

そもそも私は新卒後に地元の信用金庫に就職したなんの変哲もないその辺のネエチャンであったが、20代前半から漠然と「起業したい」という思いがあって友達に会社を立ち上げたいなんて話したりもしていた。

自分はお勤めには向いていない。というかどう考えてもこの金融事務の仕事には向いていない。そう気づくのに時間はかからなかったが、20年前の当時ではまだまだネットもその辺のネエチャンまでは普及しておらず、ドコモのパカパカのiモードを使う後輩を見て「ハイテクやなあー」などと言っていたような時代だった。つまり情報がなかった。

昭和のお局様やパワハラ絶好調の上司などに囲まれつつ、超絶不向きな金融事務をこなす日々は地獄だった。勤めていた7年間、ほぼ毎日辞めたいと思いながらも意地で頑張っていた。

当時は「好きなことを仕事に」なんてまだまだ私のところまでは聞こえてこない時代。自分で選んだ会社を「向いてないし楽しくないから辞めたい」などというのはただの逃げだと信じていた私は、新卒で入った会社以上にいい仕事(別に大企業でもないにもかかわらず)にはもう就けまいという思い込みもあって、ヤケクソの酒浸りになりながら勤めた。

自分の感覚や感性を活かすことができず、常に変わり続けるルールを遵守しなければならない金融事務は今思うと自分には心底向いていなかったのだが、そんなこともわからないままとにかく勤めていた。だいたい会社に就職した理由が「家から近くて9時5時で土日祝休み」というもので、自分が事務がからっきしできないということも入るまでは知らなかった。

事務は誰でも出来るものと勘違いしていた私には「どうしてみんながスムーズに出来ることが私には出来ないんだろう」という思いが常に付きまとった。会社の古い体質や支店ごとの昭和的なローカルルールに息苦しさを感じ、他の社員がなぜスマートに(私にはそう見えた)勤められるのかわからず、会社にうまく適応できない自分は社会不適合者なのではないかと何度も悩んだ。

口を開けば愚痴しか出てこず文句文句のオンパレード、荒れに荒れていた7年間のOL生活は結婚して3か月で幕を閉じた。結婚後も仕事を続けるつもりでいたが、元々たいそう合わない仕事だったので完全に気持ちが終了してアッサリと辞めることにした。気持ちの糸が切れるとは正にあのことだ。

その後時を経て2014年。ずっと前から挑戦したかった起業への想いが大爆発して予備知識ゼロの中、イキナリ「起業女子」として未知の世界へと飛び出していったのだった。



鼻息荒く、しかしビクビクしながら飛び込んだネットの世界は当時の私には目が眩むような激流の世界に映った。

起業の仕方がわからな過ぎて思い切って「女性のための起業塾」なるものに申し込んだ。フェイスブックのアカウントを作ってブログを開設することが申し込み必須条件だったのでひっそりとSNS&ブログデビューし、恐る恐る覗いたネットの世界。

女だてらに起業したいなんていう輩は少数派だろうと思っていた私は思い切り面食らった。

まるでオシャンなビキニやハイレグのイケイケ女子たちが煌めくリゾートのビーチに私だけスクール水着に競泳帽をかぶって入っていったような衝撃があった。

ひしめいていた。「起業女子」という名のキラキラをひっさげた猛者と書いて女子と読ませるような女性たちが、ネットの中にはひしめきにひしめいていた。

フェイスブックの激流には次から次へと女性たちのキメ顔の自撮りやオシャレなランチ、バッチリ決まった今日のコーデ、ホテルのラウンジでのお茶会などが濁流となって流れていた。「少数派?寝言かよ」っていうぐらい、起業を夢見る女たちで溢れかえっていたのだ。

入った起業塾は1か月間の集中講座。1日目にやり方を叩き込まれ、とりあえずどんな方法でもいいから1か月後に15万円を売り上げることを目標にして2回目の日にみんなで成果を発表しあうというものだった。

当時の主流はとにかく自撮り。フェイスブックは1日5~10投稿、ブログは1日3回更新というものだった。ついでにブログの読者登録をしまくって、フェイスブックも友達申請上限の5000人をやるように言われた。

フェイスブックの使い方もブログの書き方も全然わからなかった私は起業塾とは別にブログコンサルやフェイスブックコンサルも勧められ、言われるがままに受講した。ついでに読者登録代行サービスも勧められて頼んだ。

よーい、どん!!という感じで1か月の馬車馬生活が始まった(本当に馬車馬と呼ばれているコースだった)。

私以外の参加者はみな子どもがいなかった。私だけが乳飲み子を抱えてのスタート。今思えば赤子持ちの私には無茶なこともいっぱいあったのだが、何しろ右も左もわからな過ぎて「起業をするのにはこうするのか!」と、まるっと全部受け入れていた。

「子どもがいるからできません」だけは言うまいと、私は心に固く誓った。私以外の人はもうフェイスブックもブログもやってるし、1日目の起業塾ではみんなの話に全然ついていけなかったのだから、頑張らなければ。

言われたやり方はやりたくないことがてんこ盛りではあったけど、1か月で出来ることはやろうと思った。というか、絶対に負けたくないと思った。なんとしても15万円を売り上げて成果を出して見せる!!

6年前の私には、勝ち負けというのは自分の存在意義に大いに関わる重大事項だった。今思うと何とそんなに競う必要があるんだということではあるけれど。

とにもかくにも1か月で15万円を売り上げなければならない私。とは言え1日ポッキリやり方を教えてもらった程度で何ほどもできず。とりあえず別で申し込みをしたブログ講座やフェイスブック講座、読者登録代行サービスなどを受けることにした。忘れているだけで他の何かも受けたかもしれない。今思えばそんなことは全然ないのだが、その時は「起業するってえらいお金がかかるんやなあ…」と思っていた。

ブログコンサルを受けたところ、とにかく1日3回は投稿すること、そして必ず写真を添えること、とのことだった。「お昼の投稿は【今日のランチ☆】とかでいいねん」と言われたが、乳飲み子を抱えた身。見せられるようなランチをしているはずもなく。ガニ股に開いた足に子を乗せ、離乳食を食べさせながら昨日の残り物を片手でかき込んでいるというのに何を載せるというのか。「【今日のコーデ♡】とかでもいいねんで」と言われても、動きやすく汚れてもいい服で抱っこひもにぺたんこの靴がいつものコーデなのであり…。

そしてとにかく自撮りしろ、と。

自撮り。本当にやりたくなかった。というのも、SNSに自撮りをアップするなんて自意識過剰な人間のすることだという偏見を持っていたからだ。今では仕事のためにやっている人が多いこともわかっているし、楽しんでそれをしている人がいるのも知っているけれど、当時はそんな「はしたないこと」までしないとならないなら夢もあきらめたるわい、とまで思った。しかし私はもう走り出してしまっている。

当時の私の生活では無茶なことが多かったが「そうしないといけないんだ」と愚直すぎるほどに指示を聞いていたため、イヤだろうがなんだろうがつべこべ言わずに出来ることはとにかくやった。この時私は毎日「やったら出来るは出来ないのと同じ」と自分に言い聞かせて行動していた。

ただでさえ育児でクタクタで子どもがお昼寝したら休みたいところであったが、育児疲れの体にムチを打ち付け気持ちを奮い立たせ、上半身だけ着替えてフルメイクにバチバチのヘアセットをして何枚も何枚も自撮りを撮った。下はパジャマのままだ。

来る日も来る日も行くのは近所のスーパーなのにも関わらず、髪を巻き上げバッチリメイクをして自撮りにいそしんだ。人間なんでも慣れてくるもんで「自分の角度」がだんだんわかるようになっていった。慣れたとて自撮りが好きになることはなかったけど、これは仕事だと割り切ってこなしていった。

オシャレなランチやコーデをほとんど載せられない代わりに色んな風景やら何やらどうでもいいものもいっぱい写真を撮ってネタとした。そもそも私は写真を撮るのがあまり好きではないし下手だが、それでも。

フェイスブックのコンサルに至っては流れてくる投稿を読んでいなくてもいいからとにかく「いいね」を押しまくれとのことだった。もうとにかくフェイスブックを開いてスクロールをバーッとやっていいねいいねいいねいいね……と連打するのだ、と。

そして目立っている人のところにコメントする。目立っている人の投稿はたくさんの人が見ているからアイコンを自撮りにして多くの人に顔を印象付けること。とにもかくにも友達申請をしまくって友達を増やす。とのことだった。指示に違和感はあったものの、これも「起業するにはそうしないといけないんだ」と思いとにかくとにかく言われた通りにした。

当時フェイスブックには「おはようおじさん」なるものがよく出現して、自撮りなんかを載せている起業女子たちに「おはよう」とか「かわいいね」とかどうでもいい一言を送ってくるというのがあった。

乳飲み子がいてどうしても日中は時間が足りなかったため、子どもが起きる前に朝5時からコメント返しをして、おはようおじさんにまで「おはようごさいます!」と返信し(おはようおじさんが何かもわかってなかった)わけのわからない外国人からの「kawaiine!」にも「thank you☆」とか律儀に返すところから一日を始めていた。

昔からずっと自分で何かやりたかった。やっとその時が来た感じがして、後ろ足で砂を蹴り上げ火花を散らす勢いだった。違和感を感じるようなやり方に疑問を感じつつもそれしか方法を知らなかった私はそのまま突進。「売れる」ためにはこれをやらなきゃならないんだ。芸能人でもないのに「売れる」という単語が普通に飛び交っていることにも驚いたが、そんなことをゆっくり考える余裕もなかった。

必死が功を奏したのかフォロワーはどんどん増えていった。爆発的にフォロワーが増えていくにつれて、セクハラや変な勧誘などもガンガン受けていたが取り合っている暇はなかった。

メッセンジャーで下半身の写真を送り付けられたり、ねずみ講の人が寄ってきたり、よくわからないオジサンや正体不明の外国人からはしょっちゅう電話がかかってきた(そのおかげでメッセンジャーに通話機能があることを知った)。

そんなこんなでいきなりスタートした起業への道は怒涛の発信をしていくことから始まったのだが、とにかく売り上げを上げないといけないので見よう見まねで「お茶会」なるものを開催してみることにした。発信を始めて2週間ほど経ったころだった。起業塾の講師に告知記事の外注も勧められたがさすがに断った。言われるままになんでもかんでも受けていたらまだ一円も稼げていないのにお金がかかってしょうがない。

見よう見まねで告知記事を書く。使ったことのない受付フォームを貼り付けるのにも時間がかかった。今見返すと「よくこんなので人が来たな」というようなへたくそ極まりない告知記事であった。夜な夜な作業をしてやっとのことで作った告知ページ。ブログで書いてリンクをフェイスブックに飛ばす。この日もヘトヘトになって倒れ込むように眠った。

翌朝。無名のド主婦が書いたへたくそな告知記事はミラクルを起こした。目覚めると定員をオーバーする申し込みが入っていたのだ。

初めての開催だから事前に周りの人にも声をかけていて参加者がいるにはいたのだが、半分以上は知らない人だった。誘っていたママ友たちが自分の友達に声をかけてくれたり、フェイスブックの告知記事をシェアしてくれる人が何人もいて、それを見た人が次々に申し込んでくれたのだ。

中でも驚いたのは「ブログを見てファンになって来ました」という人がいたことだ。いやいや、まだブログを始めて2週間だったので「そんなことってあるんや!?」と思った。無名の私のところに2時間弱かかる遠方から来てくれた。

お茶会のテーマは「お片付け」だった。6年前当時は片付けをテーマにした気軽な会はあまりなかったのか、興味を持ってくれる人がたくさんいた。

私はもともとミニマリストでシンプルライフ実践者なのだが、そのことに気づいたのは子どもが生まれてからだった。ママ友などの急な来客があったときに家を見て驚く人が多かったのだ。「赤ちゃん育ててるのに、なんでこんなに家片付いてるの??」ということらしい。

ママさんたちの話を聞いていると赤ちゃんのお世話で精いっぱいで片付けまで手が回らず、困っている人が多そうな印象だった。私自身はもともと誰に教わるでもなくミニマリストだったので、このような話を聞いて初めて自分が片付けが得意なのだと気が付いたのだった。

そこで片付けで起業しようと決め、子どもが生後5か月になったときに整理収納アドバイザーの資格を取りに行って起業の準備をしていた。まだ授乳中だったため、乳をパンパンのカチカチにしながら受講していたことを思い出す。

そんなわけで初めての片付けのお茶会は近所のレンタルスペースで開催した。地方都市のマイナーな駅からちょっと歩くという全然メジャースポットでない場所だったが、市や県をまたいで全然知らない人が何人も来てくれた。自分も頑張っていたけど、ママ友たちがたくさん応援してくれたおかげもあってとてもありがたかった。

今振り返るとロケットスタートと言えた。何しろ活動開始2週間で、初めてのお茶会を29名集客したからだ。レンタルスペースに人が入りきれないので追加開催したんだもの。私が赤ちゃん連れだったこともあり参加者はほとんどが子連れのママさん。私はおんぶ紐で子どもを背負いながら片付けがどんなにオススメか熱く語った。たくさんの人が反応してくれたことは本当に嬉しかった。

その後もがむしゃらに行動していたせいもあってか、片付け以外でもどんな会を開いても人が来ないということはなかった。だいたい満席か、定員に近い人が集まっていた。

しかしそこは赤子持ち。子どもが熱を出したり、やらなきゃいけないことがあってもグズッて泣いてしがみついてくる。走り始めのころは何もかもがわからず、子育ても初めてだったし、両立するってことが全然できずに馬車馬期間の1か月はしょっちゅう泣いていた。

キメ顔の自撮りをバンバンUPする一方で、泣いていた。指示されている内容には違和感のあることが多すぎたしやることも多すぎた。子どもが小さいので動ける量が少ない分すごく焦ったし、私はこれでいいのか?という思いはバリバリにあった。

ずっとずっと焦っていた。やらなきゃ、やらなきゃ。頑張って結果出さなきゃ。とにかく走り抜けなきゃ。言われたこと全部やらなきゃ。

気はそぞろでずっと緊張状態。子どもが気になるし、寝るときでさえ眉間にしわが寄って苦悶の表情だった気がする。そうこうしているうちにあっという間にひと月が経ち、2回目の起業塾の日になった。

私は残念ながら目標の15万円を達成することはできなかった。13万円ぐらいだったように記憶している。たくさん集客できても単価が低かったからだ。それでもやり切ったという気持ちが清々しかった。

迎えた2回目の発表日。子どもを預けて会場に向かう途中に着信が入った。子どもが吐いているとの連絡だった。これは今日参加するのは無理と判断し、講師に事情を説明して欠席の旨を伝えて来た道を戻る。

今日に限ってという、子どもあるあるの発動。でもこれも多分初めての経験だった。今までは専業主婦だったから、別にそこまで特別な日もなかったし。

なんで。なんで、今日なの。昨日の晩まで元気やったやん。

寝る間も惜しんで死ぬほど頑張って、目標には及ばなかったけど自分なりの100%で走り抜けた1か月。その発表もできないのか…。他の参加者の話も聞きたかったし、2回目の講義を聞きたかった。とりあえず1か月走り抜けたけど、このあとどうしたらいいの?どうやって活動していけばいい??補講はないので、私は結局この起業塾で最初の1回しか講義を聞くことはできなかった。

子どもを小児科に連れていき、単に風邪だということでよかった。家に帰ってホッとしたら、涙がふきだしてきた。うわーん、うわーんと、子どもみたいに大声で泣いた。

子どもが大事な気持ち、でもやりたいことがある気持ち。自由に動けないもどかしさとか、走り切った成果を発表できなかった無念とか、なんかもう色々なことがないまぜになってわんわん泣いたのだった。

今思うと子どもより大事なことは他に何一つなく、どうしてあんなに自分の事ばかり考えて立ち回ってしまったのかという強い後悔がある。小さな我が子を真っすぐ見ずに自分の夢を追いかけてしまったことはあれでよかったとは思えない。でもこの時はどうしてもこのようにしか過ごせなかった。

それからもしばらくは馬車馬のやり方が抜けずにめちゃくちゃしんどかった。今思うとやみくもに走っていたのだと思う。講師を変えて教わったりしてみたがたいした変化はなく、キツキツの状態が続く。「自分らしくお仕事を」とみんな言うけど、自分らしいとは一体何か。私はまるっきり自分らしさを失いながら、それでいて自分らしくあるために奔走を続けることとなった。

無知というのは本当に恐ろしいもので、この時ぐらいまで私はてっきり自分がかなり「自分を持っている」と思って生きていた。いわゆる自分軸ってやつだ。鼻っ柱が強く気性が荒いということと、自分を持っているということをなぜか混同していて、私は私!と肩で風を切って生きていると思っていたのだ。実際はとんでもない勘違いで、虐待連鎖家系に生まれ育ったため無価値感と言われる命の欠け感を強く持っていただけであり、自己防衛のためにつっぱっているだけの震える少女というのがその正体だったのだけど。

講師に言われるがままに行動していく中で、私というのはただ威勢がいいだけで自分で考える力がないのだとだんだん気づくようになっていった。ここでは書いていない明らかにおかしいと感じる指示内容でも断れなかったり、講師に認められたい、褒められたい気持ちがギンギンにあったことも事実だ。

初めてのことを習う時には素直に指示を聞いて行動していくことは間違いではないので、一見するととても良い受講者であるように見えたかもしれない。でもこの当時の私は素直さと服従を完全にはき違えていたと今では思う。



ネットの世界の流行というのは瞬く間に移り変わっていくことも知ることとなった。去年まで主流のやり方は今年には平気で色あせ、あれやこれやとせわしなく様々なブームが訪れては去っていった。

馬車馬の次に訪れたのは空前絶後の自己開示ブームだった。どんな自分でも赤裸々に書いていくというスタイルが大流行したのだ。ついこの間までアクセス数を上げるには「お役立ち記事」を書き、お互いを紹介しあう「紹介記事」というものもよく見かけたが、そんなものをチリのごとく吹き飛ばす一代ムーブメントの到来だった。やりたくないことはやらない、ワクワクすることを選ぶ。好きに生きる!という大波は私を含めた承認欲求を満たしたい起業女子たちに強烈に刺さり込み、SNSは本音本音の、自己開示というよりは自分暴露大会ともいえるほどの異様な熱気に包まれていった。

馬車馬なやり方で疲弊していた私にはこれは渡りに船ともいえるべき救世主的ブームだった。この自己開示というやり方は全く私にハマる方法だった。

まずは猛烈なフェイスブックへの投稿を減らしてブログ記事も1日1投稿にしたり、必須と言われていた写真の添付を辞め、苦痛だったコーデ記事などを辞めたりして無理しすぎていたところをどんどん削っていった。そして「読まれそうな記事」ではなく書きたいことを赤裸々に書いていった。

ただし発信に慣れてきていた私はここで様々な計算もしていた。「吠え記事」と勝手に命名していたのだが、自分が思っているよりも刺激的かつ強めに記事を書くことをちょくちょくやるようになった。その方が注目を集められるということをわかっていたからだ。赤裸々に書いているときもあればそのように計算もしつつ、順調にアクセスを上げていった。

赤ちゃんを負ぶいながら片付けやシンプルライフの心地よさを一生懸命に話っていた私はいつの間にやらドヤとばかりに「理想のライフスタイルを体現するには」みたいな発信が多くなっていった。純粋に「シンプルライフって超おすすめだよ!」と活動を始めた私はいつしか承認欲求と自己顕示欲にどっぷりと足をすくわれ、夢を叶えるという大義名分のもとに自分の命の欠け感を外向きに満たすことを必死にやるようになっていった。が、この時はそんなことにも気づける段階にはなかった。

そうこうしていると風向きが随分変わってきた。それまでSNSでの知名度は上がっていても売り上げがさほど上がらなかったのがどんどん稼げるようになっていった。思っていることを怖くてもそのまま綴っていくということは思っている以上の反響があり、私は瞬く間に人気者になっていった。私史上最高のバブルの到来だ。

あんなに自己開示ブームが白熱していたのには私と同年代の人には多く共通していることがあったからだと今は思う。外側の数字で測れることが評価されがちで、みんなと一緒がいいとされてきた子供時代を過ごした人がきっとたくさんいる。80年代・90年代の学校生活などは今思い返すとどこか軍隊じみた様相を呈し、個性的であることは嫌煙され型にはまっているのが「いい子」の象徴だった。みんなそれぞれに本当は個性的であるから窮屈さを感じつつも「そんなもん」と大人になってきた我々世代の年季の入った鬱屈がここで一気に爆発しているようだった。言いたいことを言っていいんだという解放感は一種の麻薬のようにみんなの感覚を麻痺させていたのかもしれない。

そんな風にしてブームに乗りながら発信していた私。起業当初はぼんやりと「起業して月に15万あったらどんなにいいかなぁ」なんて思っていたのがひと月に100万円以上稼ぐ月も出てきた。

セミナーを開催すれば多い時では100人近い人が来てくれるようになった。私の前には列ができた。一緒に写真を撮ってください、握手してくださいと言われてプレゼントを貰ったりした。東京の出版社から呼ばれて出張でセミナーをしに行くようにもなったし、募集すれば席はすぐに売り切れ、高額なセミナーも常に満席だった。私はスターにでもなった気分だった。2010年代にしてディスコで羽の扇子を振り回しているかのごとく、私はお立ち台に乗る代わりに調子に乗っていた。

ネットビジネスの世界では桁違いに人気があったりとんでもない金額を稼ぎ出している人はたくさんいるので、これらの私の実績なんて書くのも恥ずかしいレベルだということは重々承知している。でも元々「自分でなにかやりたいな」「月15万円稼げたらいいな」という気持ちで始めたので、自分としては予想以上の成果を上げられていた。私にとっては夢見ていたことをはるかに上回る世界が展開されていたのだ。

稼げるようになったのでしたいことを全部してみた。ブランド品も気軽に買ったしマッサージに温泉にヘッドスパ、ネイルにマツエク。わざわざホテルのラウンジでPCをカタカタやりながら1000円もするコーヒーを飲んだ。毎日ステーキとトロばっかり食べて、元々きれいな家なのにダスキンの「お手伝いさん」もお願いしてたし、日々のおかずも料理が得意な友人に外注していた。受けたいセミナーはなんでも受けたし移動の新幹線はグリーンだ。

無名のド主婦から爆誕した下町のシンデレラはカボチャの馬車でドリフトした。ガラスの靴で火花を散らし幻の舞踏会に酔ってひとり踊った。しかし12時に鐘が鳴ったら魔法が解けるように、私のひとり舞踏会が終了するのにもそう時間はかからなかった。

最初は楽しかった。夢みたいだった。キラキラした写真はいくらでも撮れる。でもすぐに飽きてきた。深いところから染み出る、ぬぐってもぬぐっても消えない「これじゃない感」が常にモヤとなって私の心を覆うようになる。

2時間コースのアロママッサージを受けても疲れが取れない。そもそもミニマリストだからブランド品も何個か買ったらもういらない。ネイルもマツエクももういいや。

疲れた。休んでいても、休めない。上には上がいる。もっともっと人気者になったら楽になるのかな。そうしたら、ネットの中で煌めいている桁違いにすごい人たちのように、楽しいことしか感じないようになるのかな。

やりたい仕事は盛況で、優しい夫と可愛い子どもがいる。不満なんてどこにもない。「こうなったらいいな、こうしてみたいな」は自分の中では十分に叶えた。なのにどうしてこんなに飢えた感じがするのかな。もっと、もっと、もっと。もっと頑張らないといけないのかなーーー。

そしてそれは決定的に訪れた。

夢を全部叶えたのに、満たされない。足りないものが探せない。自分ができる努力は全部やって、もうこれ以上どうしたらいいのかわからない。

こんなに頑張ってダメなら、もう死にたいーーー。


そう。夢を叶えたら私は死にたくなってしまったのだ。起業してから3年が経っていた。

夢を叶えた結果深い絶望を味わっていた時は家の中にいながらいてもたってもいられず、ウロウロと部屋を歩き回った。じっとしていられないのでついに頭がおかしくなったのかと思った。

死にたいといっても単に絶望的な気持ちということであって、実際死ぬわけにもいかない。でもこれ以上どうしたらいいのかわからないという八方ふさがり感が強くあった。どうするといってももうこれ以上何かを求めるのは絶対に違う。きっとどんな世界でもそうなんだろうが上を見ればキリがなく、天井なしの理想に挑んでいく気は到底なかった。かといって仕事を辞めるのもまた違う。方向性を間違った感じはあるけど、お勤めには不向きでフリーランスの在り方が自分に向いていることはとてもよくわかったからだ。しかしどこをどう方向転換すればいいのやら。

私は人に相談することが出来なかった。あんなに何でも本音で書いてきたつもりが、苦しいという本当の本当の気持ちを誰にも吐露することが出来なかった。キラキラして成功している私でいなければカッコ悪いからだ。この期に及んでもそのような思考はなくならなかった。どこまでも果てしなく見栄っ張りなのだ。

そんな時に見つけたコーチングに藁にもすがる気持ちで申し込んだ。これを最後の学びにしよう。そのような気持ちだった。そこで受けたのは脳科学や認知行動学や心理学をベースとしたコーチングだったが、今思えばあれは学びというよりほとんど治療だった。歪んだ、いや歪みすぎた認知を大幅に修正できたことで私は深い挫折から立ち直ることが出来た。言いかえると「頑張ることで命の欠け感を埋める」ということを辞めることができたのだった。

結局私がやっていたことは、夢を叶えるつもりが自らが抱えていた命の欠け感を埋める旅をしていたということだった。自分には何かが欠けているからそれを埋めるものさえあれば満足できるはずだという思考は本当に果てしない。

あの時の私は頑張って手にする達成感やそれに伴う刺激的な快楽が幸せなんだと思っていた。でもそれは砂漠で飲むビールのようなもので、またすぐにのどが渇くしより強い刺激を求めるように出来ている。そしてたくさんの人にチヤホヤされたら満足できると思っていたし、誰かが認めてくれたら安心できると信じてもいた。

だけどそうじゃなかった。夢を叶えて死にたくなった結果、本当に本当によくよく自分をとことん見つめ直していったら、最初からどこも欠けてなどいなかったということに気が付いた。必死になって自分らしさを追求していたけれど、それは「理想の自分らしさ」なのであって等身大の自分は最初からずっと何者でもなかったのだ。

直視した等身大の私は全然カッコよくもない、生い立ちに傷を持ったその辺のネエチャンだった。がっかりした。そんなの全然イケてない。でもまあ、しょうがない。思ってたんと違うけど、なりたかったんと違うけど、これが私なんやな。投げやりになったわけではなく、自分を高く見積もることも低く見積もることもなくそのまま認められるようになった時、一気に肩の荷が下りる思いがした。

ネットの普及やSNSの発達で個人が簡単に自己表現できるようになったことで「何者かになりたい」という、大なり小なり人々が持っている命の欠け感のようなものにうずきが起こりやすくなったと思うが、全く私はその一人だった。ネットの世界は切り取りの部分だけだとわかってはいても、あんな風になれれば幸せになれるという幻想が蜃気楼のように魅惑的に渦巻いている。ネットを使ったおひとり様ビジネスは夢と自由度があってとても楽しいものでもあるが、その波をうまく乗りこなすにはしっかりした自己の土台が必要なのだと自分の経験から思う。



この名もない主婦の起業女子物語を「失敗」と語るのは正確かどうかはわからない。実際、失敗という失敗はしていないからだ。しかしあえてこの道のりを私は失敗と書きたいと思う。それは本当の成功というのはああいうことではなかったとハッキリ結論が出ているからでもあるし、ある意味それまでの外側の数字や勝ち負けにこだわる生き方そのものが失敗だったと言えなくもないからだ。

でも今はその失敗のすべてが私の人生の貴重な糧となった。あの挫折がなかったら気づけなかったことがたくさんある。そして今同じように自分の欠け感を埋めるために何かに奔走している人を笑いたくはない。人の営みの中で「迷いながらかく汗」みたいなものの懸命さは素敵でもあると今は思うからだ。それというのは時に周りからは滑稽に見えることがあっても、ある意味今はもう出せないひたむきさみたいなものを含んでいるとも思うから。

カボチャの馬車でドリフトしていた下町のシンデレラは馬車を降りてガラスの靴を脱いだ。今は乗り物に乗らずに裸足で歩いている。色々と勘違いしてひとり舞踏会をやっていたけれど、今は朝から畑仕事をするようになった。

自分が会社にはなじめない社会不適合者であることも、今は大変ポジティブに捉えている。OL時代にあんなにしんどかったのは、勤め人には真に向いていなかったからだと自分で仕事をやってみて痛感したからだ。

だから今も細々とおひとり様起業を続けている。あの頃とは比較にならないほどひっそりと。また片付け・シンプルライフをお話しする日々。ただ内側の片付けというカテゴリが加わった。家の片付けだけでなく、心の内側にもし命の欠け感を持っているならそれを片付けて、外側も内側もシンプルに暮らしていけますようにと。

非日常と刺激を求めたあの頃より、なにげない毎日に満たされて過ごす日々。キラキラしていないし何にも成し遂げていないけれど。何者でもない自分のままで充実した日々を暮らせるようになったのはあの時の失敗があったから。

頑張って頑張ってカボチャの馬車でドリフトした日々に。ガラスの靴で火花を散らした日々に。幻の舞踏会でひとりで踊った日々に。心から、ありがとうを。


おわり。



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