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教育と対話について

今日は、以前から思っていたことを、少しメモしてみます。抽象的でごめんなさい。

教育と対話って、矛盾するものと、僕は勝手に思っています。

教育は相手を導くゴールを事前に、かつ、一方的に設定しますが、

対話は、自分の認識の前提そのものを、相手次第で議論の余地あるものとして差し出して初めて始まるものだと、僕は考えているからです。

ユメソダテであれ、夫婦であれ、親子、友人、上司と部下であれ、

対話的であること以外に対象者を変える方法はないと、私は思っています。

同時に対象者を変えようという意図自体は、とても教育的で、対話的ではないとも思っています。

そして、いい先生とか、いい上司とか、いいソーシャルワーカーとか、いいお医者様という方々は、例外なく、とても対話的な上に、意図を手放さないというか、何らかの方法でこの2つの要素に折り合いをつけていると感じます。

例えば、外山先生や西澤先生や芦塚先生(私が教えを頂いた順)から学んだFeuersteinの方法は、この2つの矛盾する働きについての、一つのミックス戦略を提案しているのだと、僕は理解しています。

例えば、Feuerstein風には、以下のようにして、対象者は、自らと他者を俯瞰する視点、メタ認知を手に入れ、自律していくとされていると、僕は理解しました。

1 凹んだ認知機能を高める。

2 内的モチベーションを持たせ、やる気を引き出す。 

3 学んだことを試したくなることを習慣化させる(行動が変わる)。

4 情報を受け取る側から発信する側になり、伝え・表現する。

5 基本的概念と、その操作を手に入れる。

6 反省的な洞察にとんだ内省的プロセスを獲得する。

これら一つ一つのステップの記述は、教育目標であって全然対話的ではありません。しかし、このステップ一つ一つへ対話的に導く(媒介する)ことで、一つ一つステップを登らせようというのがFeuersteinなのだと私は理解しています。

ですから媒介者自身の個性や経験や信念によって、Feuersteinの教材は、単に教育的に使われるかもしれないし、対話的に使われるかもしれないと思います。

以前、NHKのプロフェッショナルで拝見した、井本陽久先生の数学の授業も、準備は教育的ですが、それは生徒の前で対話的であるための準備で、さらに生徒間の対話に火がついたら、先生自身は対話の場からも身を引いていくという驚くべきもので、すごいなーと思いました。

昨日のブログで書いた中塚さんや谷山さんのやっておられる居場所も、うんちマンも、先日亡くなった誉田龍一先生、上田君も対話的です。

しかし、障がいがある人、自分と文化的に大きく違う人を前にすると、対話的でなくなってしまう人がとても多いように思います。

根っこには、分離社会が作った未知と知らない人に対するおそれがあるのだと思います。

変えていきたいですね。

ユメソダテも、いつも対話的でありたいです。

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