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第9回「夢二を待っていた恩師」

1933年(昭和8)10月26日の昼頃、夢二は基隆港に着き、午後早い時間に台北の宿泊先である「鉄道ホテル」に到着したと思われます。 ここでは、夢二の訪台を知り待っていた人がいました。その時は既に日本を代表する画家となっていた恩師の藤島武二です。 前述のとおり、武二は、夢二が1901年(明治34年)に単身上京し、早稲田で共同生活をしながら通った「白馬会」の創設者の一人で、藤島の画風を好んでいた夢二は、自分の名前に武二の「二」を付けていました。 その後二人は、1919年(大正8)

    • 第8回「夢二の台湾での意外な再会」

      台北市に着くと、夢二は大きな駅前広場に面した「鉄道ホテル」に投宿します。ここは、1908年(明治41年)10月に落成した台湾総督府鉄道部直営のホテル。実はこの年、1899年(明治32)建設を開始した台湾の南北縦貫鉄道が10年余の時を経て貫通しており、台湾のインフラ作りの重要な基礎が出来上がった年でした。これを主導した後藤新平民生長官は、この2年前まで民生長官として台湾総督府に8年間務め、その後新設の南満州鉄道の初代総裁を2年務めた後、帰国して逓信大臣に就任しました。 逓信省は

      • 第7回「夢二がたどった台北への道」

        前述のとおり、基隆港に着いた夢二は待ち構えていた記者の取材に対し、ヒトラーに追い出されわけではなく、ドイツの芸術の発展性に魅力をなくしたと答えていました。 実際のところ、終盤では特にひどい金欠のうえ極度の体調不良になっていた欧州の旅でしたが、取材でこれに言及することはなく、記者の方も夢二の米欧の旅の状況について何も知らなかったようです。一時は夢二が行方不明になっているといった記事が読売新聞に掲載されています。(現在、竹久夢二美術館で開催中の企画展「夢二と読売新聞」にその記事資

        • 第6回「夢二とイッテン・シューレ」

          夢二が台北に向かう話の前に、夢二が欧州からナポリ経由で帰国する直前に日本画を教えていたという「イッテン・シューレ」という画塾について、論文「台湾の夢二――最後の旅」(ひろた まさき著)にこれを論じている部分があり、大いに参考になったのでここに紹介します。これは非常に素晴らしい論文でネット上で読むことができます。 なお、残念ながら同氏は2020年にお亡くなりになりましたが、昨年発行された著書「異国の夢二」(講談社選書メチエ)の中に論文発表後の台湾関係が取りまとめられて掲載されて

        第9回「夢二を待っていた恩師」

          第5回「夢二、基隆港に着く」

          昭和8年(1933)10月23日、夢二と河瀬蘇北を乗せた「大和丸」は横浜港を出港しました。 この出港日に関しては、10月24日という説が一般的でしたが、夢二研究会会員高橋邦明氏の日本郵船等への調査で、1日前に出港するスケジュールとなっていることが判明。(「臺灣航路案内」(1933年(昭和8))によれば、「大和丸」の神戸港出港日は月曜日であり、10月24日は火曜日となるため、出校日は23日と思われます。なお、到着日は定説どおり10月26日です。(写真参照) また、この資料によ

          第5回「夢二、基隆港に着く」

          第4回「夢二を台湾に誘った男ー河瀬蘇北」

          夢二を台湾に誘った人物―河瀬蘇北(本名龍雄)は「東方文化協会」の理事長で、大正から昭和初めにかけて十数冊の著書のあるアジア政策の研究家。夢二の帰国を待っていたかのように、「台湾支部の開設記念にで講演会と展覧会からなる記念事業を行いたい」と申し入れてきたのです。 実は、夢二は蘇北とは初対面ではありませんでした。1931年(昭和6)3月、夢二はアメリカに発つ直前に河瀬蘇北の著書「新満蒙論」(第一出版社)の装幀を行っていたのです。蘇北は夢二が洋行から戻ったことを知ってちょうど良い

          第4回「夢二を台湾に誘った男ー河瀬蘇北」

          第3回「夢二が台湾に行った理由」

          1931年(昭和6)5月以来、夢二はハワイ、アメリカ西海岸、欧州各地と旅を続けましたが、特に後半の欧州では無銭旅行に近い状態となり、パリの路上で倒れたりするなど苦しい経験をしました。さらに、最後の滞在地ドイツでは、ヒトラーの率いるナチスの隆盛により、領事館員の協力で始めた画塾イッテン・シューレでの日本画の教授もままならなくなり、ついに1933年(昭和8)晩夏に帰国を決断し、ナポリ経由で9月18日に神戸港にたどり着きました。迎えた有島生馬は夢二の衰弱しきった様相に驚いたそうです

          第3回「夢二が台湾に行った理由」

          第2回「夢二の台湾旅行日程」

          現在分かっている台湾での夢二の行動は、大要次のとおりです。 一応日程表の形になっていますが、現在ある資料で分かっているところを記載してあります。また、資料により日にちが異なっているものは「~日頃」としてあります。 とにかく、日記、メモ、スケッチの類が全く残っていないため、個人的な行動の記録は皆無に近い状態で、逆に言えばそれを推測する面白さを残してくれているのというのも事実です。 昭和8年(1933年) 10月23日(月)神戸港から大和丸にて出港。(同行者は東方文化協會理事  

          第2回「夢二の台湾旅行日程」

          第1回「謎多き夢二の台湾訪問」

          竹久夢二は、大正時代を象徴する存在として活躍しました。 その50年に満たない短い人生を終える1年前の1933年(昭和8年)秋、2年余りの米欧への外遊から帰国後した夢二は、旅の疲れを癒す間もなく台湾に渡航して個展や講演会等を開催しました。 しかし、展覧会は不調に終わり、彼は帰りの船に乗り遅れたばかりか、持って行った絵などの所持品がすべて盗まれてしまうという不運に見舞われ、夢二の台湾での行動はいまだに謎につつまれたままとなっています。 2013年に機会があって夢二に関心を持ちはじ

          第1回「謎多き夢二の台湾訪問」