本当の釈迦の教えに、親しんでほしい
宗教(仏教)に抵抗がある人や辛気臭いと思っている人は多いようです。これらの人向けに、誤解や、食わず嫌いをなくしてほしいという想いをお伝えしたくペンをとりました。
こむずかしい知識は数多くの出版物に譲って、ここでは一般の人に、最低限知ってほしい仏教の正しい概念を伝えたいのです。
実は、釈迦の教えは、2,500年前に西洋科学に先んじて、宇宙の根本原理を解き明かしていた壮大な哲学なのです。
西洋の科学者は、20世紀になって数々の物理法則を築き上げてきました。しかしその際たるものが、はるか昔に釈迦が唱えてきた『縁起』の理論と同じものだったことに気づきます。彼らは愕然とし東洋の叡智に畏敬の念を抱くに至るのです。
原始仏教のみが釈迦の教えそのものを伝えています。現存するところで近いのは小乗仏教の上座部と言われるものです。
(おなじみの浄土真宗をはじめ他宗派の教義はすべて日本に伝わるまでに捻じ曲げられたり、創作されたものです)
宗教でなく哲学といわれる理由は、三大宗教の中で唯一「神」を置かず、「死後の世界」も認めていないからです。とすれば現代の人達にも受け入れやすいのではないでしょうか。
輪廻転生(=魂の存在)、地獄、葬式、戒名、檀家制度、…
弘法大師でお馴染みの密教に見られる護摩焚きや、超能力
これらはほとんどが、坊さんの収入源となる商品ですが、これらすべてをなんと釈迦は否定しているんです。
魂の存在に関しては、なんと釈迦は『無記』すなわち答えるに値しないという立場です。
自分の教えは、生きている人のためにある。死んだ身体は単なる物体にすぎない、したがって死後のことを論じる意味がない。という考えです。
【魂の存在(輪廻転生)について]
(まず魂の定義を、『実体として存在する自我』とする)
後で説明する『縁起』の論理から、実体として自我というものは存在しません。
したがって、お盆に家族の元に戻ってくるとされている『霊魂』は否定しています。
どうです、釈迦の教えは、神も魂も否定しているのです。
おまけに、『縁起』の理論でわかるように、現代の科学の発達の根源とも言える量子力学を、西洋近代科学より二千年以上も前に発見していたのです。
霊魂とは後に乱立する宗派の創作です。
これらにより、仏教自体が怪しげで、辛気臭いという見方をされるようになったのが返すがえすも残念です。
(仏教といえばまず浮かぶ立派な寺などは釈迦の死後遥か後に作られ出します。そもそも本人は弟子すら取るつもりもなく、請われて”渋々“教えを広める羽目になっという逸話があるくらいです)
本当の釈迦は、厳しくも優しく、IQ抜群の、ポジティブな人なんです。30才ちょうどの時、王子だった身分を捨て、たくさんの女性を振り切って旅立ちます。さぞかしイケメンだったのかも。
『生きることは"苦“である』の誤解
さて、いよいよおしえの中身に触れていきます。
まず、代表的な誤解が、『生きることは"苦“である』(一切皆苦)という言葉の持つイメージです。
この「苦」と訳された言葉の本来の意味は、単に『思うようにならない』ということです。この単語そのものは、苦しくてたまらないというニュアンスとは別なんです。
たしかに、世の中思う通りにスイスイ実現することの方が少ないですよね。たとえば、正座を続けていると足が痺れてきます。なので立ちあがります。何時間も立ち続けるとつらくなります。このようにいずれにしても楽な状態はつづきません。
釈迦の教えの二大エッセンス
そして、釈迦の教えのエッセンスを私くしなりの解釈で、次のように二つの柱で成り立っているととらえています。
❶『縁起』つまりこれが世に言う悟り
よく知られている諸法無我と諸行無常がその説明にあたります
【諸法無我】
(あらゆるものには実体がないの意)
『自我(自分)とは何か』の答えは、「線」と「点」の関係と同じに“関係性“でしかない…です。
たとえでいうと、自分とは誰か?それを説明するとき、生まれた国は、親は誰、出身校はどこ、趣味は、…と延々のべるしかなくなります。すなわち、他者との関係性でしか説明できないとわかります。
そして、数学で言うところの線分とは実は、面積や幅は一切ありません。したがって、線と線が交わったところにできる点も面積や幅がありません。想像しにくいと思いますが、その意味するところは、実体として存在していないと言うことです。(ちなみに鉛筆で書く線は0コンマ何ミリかの幅を必ず持っていますので、別の話です)
先程の自我とこの点とはともに、実体がないことは分かりましたが、それでも概念としては明確に認識できますよね。
よって、線と点の関係も、自我も、実在でなく『関係性』という概念なのです。
(別の表現では「あるとも言えるしないとも言える」)
ここが量子論の概念と重なる部分です。
【諸行無常】
(世の中に変わらないものはないの意)
誰がみても川という存在はあります。
しかしながら川の流れの水分子ひとつひとつの動きを考えると、その場に同じ形でとどまっているものは一つも無いという意味です。
物質を作っている素粒子は常に入れ替わっています。人間を見ても細胞は短期間にすべて入れ替わっています。
❷一切皆苦
世の中に生きている我々は、あらゆることにおいて、思い通りにならないことの繰り返しを味わっていることになります。
一切皆苦における釈迦の教えは、思うようにならないことを受け入れましょう、その方が心は楽になってきますよ、ということです。
最たるものは、物欲や快楽の欲求です。手に入れた時の満足感はすぐ、もっと欲しいという渇望感にすりかわります。これには際限がありません。そこから抜け出るのは、その心のメカニズムに気がついてほどほどにすることです。
ここまでの話をまとめさせてください。
●釈迦がたどり着いた悟りとは
『縁起』(全ては関係性にしかすぎない)
●骨子となる「教え」の根幹
『一切皆苦』(すべては思うようにならないものだ)
"煩悩“(欲望のエスカレート)が、それを苦しいと感じる原因なので、全ての欲望をほどほどに抑えましょう。
このように、釈迦の教えとは、この世界の仕組みを解いたものです。
そしてその理解を礎(いしずえ)にしてより良い人生にしていきましょう。という提案なのです。
最後に中興の祖ナガールジュナが発明した『中観』という世界観を紹介します。釈迦の教えをさらに発展させたものです。
空観→この世はすべて空
これだけだと、自殺も他殺も別にいいじゃんになりかねません。
仮観→この世はすべて実体
これでは、ストレスや悲しみの重圧から逃れるスベがなくつらすぎます。あるいは物欲が際限なくなります。
これらは相反する考えです。どちらかだけの解釈だけで生きていこうとすると、いずれの場合も暴走してしまいます。
中観→そこで、これら二つの考えを合わせながら世の中の真の仕組みを理解します。そのうえ上で現実世界に意義(自分という存在に役割)を持たせる試みです。
本当の世界は実体が無い(空観)とは知りつつも、あるように見える(仮観)という日常での錯覚も利用して、
『どういうわけか我々はこの物質世界に生まれてきたのだから、それぞれの“役割”を果たしながら有意義に生きていこう』と考えるのです。
現代では葬式仏教になってしまった
現代日本においては葬式仏教と揶揄され、私たちが関わるのはもっぱら葬式の時のみという人が大部分になっています。
ところがなんと、「釈迦は葬式に僧侶が関わってはいけない」と戒めていたのです。
長い年月の間に誤解されてきた、釈迦の本当の教えの真実を知っていただけたらと、願ってやみません。
参考文献:お釈迦様の脳科学(苫米地英人)他
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?