見出し画像

違う意見についての対応、その新しいかたちを提案したい

新しい考え方を発見しました。
例の感染症と、国家間紛争の件が考えるきっかけになりました。

この二つのテーマである夫婦で会話をしようと何度か試みたんです。
ところが、まったくかみ合わない。それどころか感情的になりだし大げんかへ発展する予感がし、あわてて自分の部屋に逃げ込んだ。
印象としては、まるでユダヤ教徒とイスラム教徒の対話だ。
一言一言をっひっくり返そうと、やっきになってくるのだ。

これ以降、このままではこのニュースを耳にするたびに、フラッシュバックして不愉快になるばかりと思いはじめた。
その話から考え抜いた結論が以下のことです。


これまでのパターンは、
•お互いの意見を述べ合う
•そしてそれについて反対意見を述べ合う

これが普通にどこでも行われる会話だったと思う。
ところが、これが間違っていることに気がついたわけです。

これだと、決して意見が一致することはない。そして一致しないとしてもいい気分で議論が終わる、ということも経験上ほぼ100%ない。

反論の応酬になり、その場では永遠に終わらない。
また、こういう話題だとつい感情的になりやすい。
すなわち、そうだと思う部分にでも意地でも認めるまいという心理がはたらくからです。
そのため自分の中で、冷静に相手の言い分の中に真実があるかどうかの審判をする機会を失うことになってしまう。

本来対話というのは、それこそ「正・反・合」。一致しないまでも、いや一致しないからこそより高い次元の答えを見つけることが、その意義であるはずです。

新しい対話

相手がある話題について、思っている考えや言いたいことを、ひとしきり述べたとする。
それに対して、自分はこれまでのように反論を述べるのでなく、ひたすら相手の意見を一方的に聞くことに専念する。
そこだけで終わり。
ようするにその場では、それに対する反論を一切しないということ。

言い分を聞くだけ聞いた後、クールダウンした頭脳でじっくり思考することにより、自分自身が持っているかもしれない偏見を逃れた正当な判断が可能になるわけです。
すなわち、それぞれが自分の意見の間違っている部分に気がつき、素直に受け入れやすい土壌を作るわけです。

★さらに、もし可能なら
相手の考えのバックボーンとして片方だけに偏っていると感じた場合、そのこと自体をはっきり指摘するのは良い。
そして、更なる議論の場をもうける条件としては、相反する両サイドの情報を充分取り入れたかどうかを明確にする。
そうでない場合、議論する意味が全くないことを明言する。

まとめ

以上の理屈を具体的なやりとりの例にしてみた。

相手との対話の仕方
(対立意見のケース)
A=自分.     B=相手

B「俺こう思うんだよね〜」
A「へーそうなんだ」
のみでとどめる
→自分の意見は一切言わない。

(*ここでBが意見を求めていたら)

A 「それは違うよ、だって〜」⇒❌
「へーそうなんだ、俺はこう思うな   
 〜」⇒◎
(*この“へーそうなんだ”が極めて重要です)

ここまではあくまで、一方の情報しか聞かない見ない人を相手にする場合です。
(このケースでももし必要なら前段での★を持ち出してみる。が、険悪になりそうならストップする。)

たしかに言いたいことグッとこらえて、聞くだけというのは最初はかなりつらいでしょう。でもだんだんと慣れてくるものです。
そして、相手との関係を破綻させたくないなら、この方法しかないのかしれません。
いずれにしても、こういう分野の議論の応酬は、マウントの取り合い、プライドのぶつかり合いでしかなくなる。
不愉快さ以外得るものが全くない不毛の議論なのです。


もちろん両方の情報を集めている人に対しては対応が違ってきます。
「なるほどそうか、じゃあこの場合はどうだろう~」と内容を深掘りしていくことで、たとえ対立意見でも自分の考えの参考にすることが出来る。
このパターンこそが望ましい、対話のあるべき姿ではないでしょうか。

[注釈]
ここまで述べてきた考え方は、当然グループディスカッション、仕事上のテーマなどにはあてはまりません。
あくまで個人の間の、それもより近しい関係の人間同士のことで、夫婦などはその際たるものでしょう。
そして対象となる典型的な話題は、よく言われるように“政治と宗教“がらみです。
実生活の上で、結論を必要とする問題についてはまた別の話です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?