見出し画像

君は僕

note の投稿を読んでいて感じるのは

人が考えていることは、なんてこんな似たようなことばかりなんだろう。
物事に対する感じ方が極めて近いと思う。
もちろん振れ幅にある程度の差はあるにしても、その上限・下限ともしょせん想像できる範囲内である。

私なりにその答えを考えてみた。

他人は自分の分身であるということ。違う言い方をするなら世界中の人間は一つの存在である。

アカシックレコードという人類史開闢以来の知恵と情報が集められたゾーンを唱える説がある。
これもある意味人間が一つの存在であることと同義なのか。

一方、心理学においては、“相手は私の写し鏡である”という見方をする。
相手の反応を自分のバイアスがかかった先入観で解釈してしまうため、人それぞれで、同じ相手の振る舞いに対してまったく違った受け取り方をするということは日常的にある。

先に思考の振れ幅という言い方をしたが、仮に電波で言うところの周波数と考えると、人間も思考するとそれはそれぞれ独自の周波数を持った波動として宇宙に拡がる。
ただ、正常とみなされる周波数の幅があって、それを逸脱した周波数を発している脳の持ち主を精神異常者とみなしてるのだと思う。
(しかし、本来その正常の幅を決めるのは誰に権限があるのかという疑問があるが、それはさておいて)

いずれにしても、どうやら世の大半の人間が極めて狭い振れ幅の範囲内で思考している。
数十億もの人間がその範囲内の周波数を持っていることが、私には奇跡的なことに思え、ものすごく不思議でならない。

その答えを無理に探すなら、やはり地球上の人類はそれぞれが、ある一つの存在の分身であるという考え方も、あながち突拍子でもないのではないか。

実はこの考えは創造主の存在を意味することにもなっている。

宗教的とかスピリチュアル的とか決めつけずに、柔軟な思考を持ってこのことを受け止めてみてほしい。

けっこう、人類の永遠のテーマの一つである「神の存在」の有無に対する答えのヒントになるのでは?



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?