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マイライフ:第1章:「学生時代終末時~入社」

「序文」
これからは確実に私自身の人生に
なりますが、やはり人間ですから
ネットの世界で不味いことは書けませんね。
かなりはしょる部分も大いにあるかも知れません。
 
 
 
「学生時代終末時~入社」
 
 
運転免許の取得

大学3年が終わった春休み
実家の下関に帰り
自動車教習所に通い
免許を取得しました。
これからは車社会となると予想した
父は、会社でも免許が必要であろうと
小倉の自動車教習所に通わせてくれました。
成績は軽い1ミスでトップ成績を収め
教官は大いに喜びました。
 
1969年福岡大学土木科4年の初夏
その時代は「青田刈り」といつて
卒業確定前に一流企業が
卒業見込み生に就職の内定を
とりつけました。
ほとんどが、東京・大阪のゼネコンでした。
私はどうもゼネコンが好みでないというか
気性があっていなかったのですね。
 
そのあとは、地方公務員や国家公務員
で、給与はゼネコンの半額以下と
圧倒的にすくなかったのですが
当時から公務員は「安定した職業」として
かなりの人気がありました。
 
私も受験しましたが、なにしろ競争率が
すごいのですね。
地方公務員も何社かうけて全滅。
 
職のあてのないまま、卒業論文の
創作に入ります。
その論文の担当された助教授が私に言いました。

「土木の世界はゼネコンだけでなく
設計コンサルタントという分野がある
これは日本ではまだ広く認知されていない
分野だが、かなり将来性はある。
もしよければ、わしが博多の本社に紹介してやる」

もともと建築希望だったわたしに「えっ、設計の仕事?」
「宜しくお願いいたします。」、即答ですね。
(私は建築希望だったが土木のほうが難易度が
低いので合格しやすいという父の勧めからである)

父も喜びました。
実家の下関から博多ならいつでも帰れます。
卒業論文試験も終えると
今度は就職実習期間に入ります。
大学在籍は卒業まであるのですが
2月にはすでに就職先の実習に
はいりました。
実習内容は、学生なので、測量のポールもち
や簡単なトレース業務しかできません。
 
本社は道路公団の設計業務が主体で
完成された測量図面のうえに
計画した道路線形を、T定規と三角定規
カーブは円定規、道路曲線は特殊な
クロソイド定規を巧みに組み合わせ
ステッツラーのペンシルを使って
道路線形を書き込むというものです。
それが成果品になるわけではなく
インキングトレースしなければならない
という道路公団の規約があったわけですね。
本社にもトレース部門はあるにはあったのですが
非常に小規模で、大量の成果品をこなすには
東京の大手トレースメーカーに外注していました。
工期は確実に守らなければ
道路公団からペナルティーをうけるので
外注はある程度計算して余裕をもっていたのですが
1970年3月31日に「よど号ハイジャック事件」
がありました。



なんとその便には、トレース成果品が積み込まれていたのです。
 
早朝からかなり多くの社員が集まっていました。
私もいました。
そして、博多の上空を板付空港へと飛び去る姿を
皆で唖然として眺め、
「あ~あ、成果品が飛んでいくばい。」
誰一人として、機内の乗客の安否を
気遣うひとはいませんでした。
 
ところが、あとから、奇跡の一報が入りました。
空港から「こちらの手違いで帳簿上はその飛行機に
つみこんだようになっていましたが、一便おくれて
発送しました」
 
皆に安堵の表情が戻ったのですが
依然として、乗客の安否を気遣うひとは
いませんでした。
 
そして、1970年4月4日に
入社式とあいなりました。
それほど大きな会社ではないのですが
やはり「団塊の世代」ですね。
入社人数は50人に及びました。
初任給3万2千円でした。
一流ゼネコンの半額以下ですね。


添付写真は、関門海峡、下関の隣はすぐに門司港や門司

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