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マイライフ:第2章:「東京出張所転勤」

入社早々「東京出張所転勤」の話題が
出ました。

皆、「東京なんか行きたくなかばい、
地元の博多にある本社にはいったのは
それが目的ですばい。」
その論は一理ありますね。

そんな環境だったので
部長も及び腰で
「だれか行ってくれんじゃろうか?」
と懇願する始末。

そんな状況で、調子のよい奴は
何処にでもいるものですね。
「そんなことならわしの後輩を行かせますばい。」
という土木科の1期先輩が出現したことに
私は驚きました。
まわりも、「あんたの先輩が東京に行かせると
いっとるばい。」
自分が東京に行きたくないものだから
そういってはやし立てるわけですね。
九州男児は豪快という世評があるなか
どこにでも「陰湿系」は多数いるものです。

私は皆の態度に愕然として
「東京行きますばい。」と答えました。
一瞬のうちに、私に「東京出張所転勤」の
辞令が降りました。

後日、父が、転勤撤回の懇願に行きましたが
一旦降りた辞令は覆るはずもありません。

後悔したのは軽はずみな言動にでた
土木科1期先輩でした。
彼の軽はずみな言動と
「なんと思いやりのない土木科の先輩じゃろうか」
という世評が広がり、彼が辞表を提出するには
それほど多くの時間はかかりませんでした。
「正に口は災いのもと」
しかし私は彼が可哀そうでなりません。
というか、そんな冷酷な先輩と同じ職場には
いたくないという思いですね。

1970年4月半ば、東京の地に立ちました
勤務地は中野
独身寮は西川口にありました。
別の家すまいの寮母さんが賄いを担当し
朝夕食事時だけその家で食事を
しました。
寮費は6000円程度でしたが
2食のまかないと、2段ベッドで2人で一室
与えられたので、3万2千円から寮費を
差し引いても十分生活できました。
寮母さんは、戦争未亡人で
美人で独身の娘がいました。
 
 
添付写真は後日のもので
当時は東京アスレチッククラブもなく
空き地で、皆とキャッチボールを
していました。

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