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ペクトラジ 第十部 「イビヨール(別離)」


戦後の復旧政策として、下関市内の近代都市化が急がれていた。
練兵場は戦後「軍事訓練」には使用されなかったので、この広大な空き地を利用しない手は無い。
下関市は、この空き地を、観客席付きの陸上競技場にし、市民の為に開放することに決めた。
工事着手前に周辺の環境を整備しなければならない。
文化施設の周辺に、不衛生な韓国部落があってはならないという理由から、まず、部落の移転から着手した。
そこで、部落は別の場所または遠い地の山奥に順次移転していくことになる。

それは暑い盛りの八月のことで、部落は一軒ごと解体され、トラックにつめられ、住民を荷台に乗せ搬送されたのである。

ヨドセの家も午前中には解体が終わってトラックへの積み込みが終了したのは午後二時である。
その間、家族は事務所の広場の一箇所に集められた。

剛はヨドセにお別れの花かざりを贈りたかったのだが、クローバーの花はもう無かった。 

「ヨドセ、すまんのう。うちは貧乏じゃけん贈りものはなにもなかばい」剛は九州弁で問いかけた。
「うちゃ~なにもいらん。その言葉だけでいいっちゃ~」少女は下関弁で答えながら剛の胸に顔をうずめた。
少女は朝、石鹸で髪を洗ったようである。
その石鹸の香りが剛の鼻孔をくすぐった。
剛はやさしく少女の髪を撫でた。

少女は顔をあげ、涼しげな瞳をなげかけ、やがて瞳をとじ、唇を差し出した。
 剛はガキである。その意味がわからず、
「ヨドセ~、目にごみがはいったんか?」
少女はくすっと笑い、「そうじゃ~」と答えて右手を差し出した。
剛は握手して、「ヨドセ、元気でな」と声をかけると、少女はくるりと後ろを向き、三~四歩歩くと、振り向きざま指で口を広げて「オッパのばか~」と言い放つと、急にさびしげな目となり、ひとこと「アンニョン」。

 少女はトラックに駆け寄ると、男に抱え上げられ、荷台に乗せられた。
トラックはその直後発進し、桜幼稚園のポプラ並木をすりぬけた。
突き当りの丅字路を右にまがって、トラックの姿が視界から消えた瞬間、剛の胸になにか熱いものがこみ上げてきた。
剛は丅字路のところまで全力でかけつけたがすでにトラックは次のカーブを左にまがって、視界から消えていた。 

剛はいつまでも丅字路にたたずんでいた。

少年は八歳、少女は七歳のときである。

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