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シロツメクサ

私が八歳の頃だったので、戦後十一年経過していたが、
下関にはかって軍事訓練に使用した「練兵場」が残されていた。
もっとも、軍事訓練は廃止されていたので、
「練兵場」は広大な空地となっていた。
三か所のうち、最も広い第一練兵場の
地覆にはクローバーが植栽されていた。
裸足で走り回っても怪我をする心配がなかったので、
子供達の絶好の遊び場であった。
 
春ともなれば、クローバーの花が一面に咲き、
その花のじゅうたんの中で、
女の子たちはクローバーの花飾りを編んで遊んだ。
私は花飾りを編む名手で、大きな花の首飾りを編み、
女の子にプレゼントすると、その娘は顔を
くしゃくしゃにして喜んだように記憶している。
 
年月が経過し、ふじみの市の地で結婚した。
身体の弱かった妻であるが、私は一人っ子で
育った寂しさから妻には無理をお願いして、
二児を産んでいただいた。
しかし、妻子とも身体が弱く、病院通いが絶えなかった。
 
特に子供は気管支系が弱く、小児ぜんそくにかかり、
川越の埼玉医大医療センターに自家用車で
よく連れて行ったものだ。
医療の不安から、その地をあきらめ、
総合病院埼玉医大が近くにある今の団地に
転居してきたのが二十八年前のことである。

当時、団地の中にかなり空地があり、
クローバーが自生していた。
息子達が泉野小学生の頃、空地で蝶やとんぼを
採って遊んだものだが、近所の女の子達も
一緒になって虫獲りを楽しんでいた。
私は子供時代を思い出し、クローバーの花で冠を作り、
その女の子の頭にかぶせてあげた。
大きな花飾りを作るほどの量がなかったので、
小さな冠しかできなかった。
それでも、当時の団地の小学生にとって、
花の冠は初体験とみえて、目を輝かせて喜んでいた。


やがて六十歳の定年を迎え、余暇にデジカメを

ポケットに忍ばせて散歩することが習慣となり、
農道に咲く花や雑草にいたるまで撮影することとなった。
 
昨年の春のことであるが、泉野小近くの田んぼのあぜ道で、
雑草とおぼしき小さな花を、特殊なカメラで撮影している
かたにお会いした。
植物の話となったが、雑草のことにやけに詳しく話がはずんだ。
埼玉県内の主だった植物を調査されているらしい。

おそらく地元で名の通った植物学者と想像されるのだが、
その後、そのかたにはお会いしていない。
 
以下はそのかたの話である。
クローバーは正式名を「シロツメクサ」と呼ぶのだが、
近年は、外来種である「アカツメクサ」がかなり
繁殖し始めている。
植物の在来種と外来種の線引きは、明治維新と定められた。
「アカツメクサ」は、戦後、外国から輸入した飼料などに
種が混入したものが繁殖したものと考えられる。
従って「アカツメクサ」は外来種である。
赤の染色体は非常に強く、白はまたたく間に朱に
染められてしまう。
この勢いで外来種である「アカツメクサ」が繁殖すると、
約百年後には在来種である「シロツメクサ」が絶滅してしまう。
おそらく近い将来「シロツメクサ」は絶滅危惧種に
指定されることとなるであろう。
「また一つ、日本の文化である在来植物が、
絶滅の危険にさらされている」
 
そのかたは非常に真剣に話されていたが、
私には十年先のこともわからないし、
ましてや百年後のことは想像すらできない。
しかし、その話をお聞きしてから、私は注意深く
クローバーを観察するようになると、
たしかに「アカツメクサ」が増殖しているのが分かる。
シロツメクサの群落の中に「ポツリ・ポツリ」と
混じるような朱色を見かけると複雑な気持ちになったものだ。
 
やがて、時の経過とともに、私はその存在を
ありのままの自然として受け止めることとした。
そして、「アカツメクサ」自体は、それはそれなりに
綺麗に思えるようになってきたこの頃である。
もしも私が、百年後に生まれたら、
今度は「赤い花飾り」を少女にプレゼント
するのかも知れない。

 
『注』 文中、「白は朱に染められる」とあるが、
「アカツメクサの繁殖力が強く、
シロツメクサがその勢力に負けて、シロが途絶える」
との記憶違いかも知れない。


2014年6月10日  秋月かく

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